6月 12th, 2015 | Tags:

日刊ゲンダイの連載書評のために、書いたのですが、すでに書評済みだったので、ボツにしたものです。よろしければ、お読みください。

 

『映画の戦後』川本三郎 七つ森書館

 

還暦を過ぎると、読むべき本と、読まなくてもよい本というものが瞬時に判定できるようになる。

どんな基準でかと問われると困るが、経験則と身体感覚と答える他はない。平たく言えば「好み」に従う。

これから先、読める冊数は限られてくるので、時間を無駄にはしたくない。新刊が出ればまず、手に取りたい作家が何人がいる。 関川夏央、川本三郎、橋本治、鷲田清一、内田樹、中島岳志と名前を連ねていけば、ピンとくるひともいるだろう。

連載の第一回は、そういった作家の新刊を選びたい。川本三郎の本は、川本好きにとっては、定期的に喉の渇きを癒してくれる湧水のような存在だ。

「私の批評は、映画をその時代のなかに置いてみることが基本になっている」とあとがきにあるが、わたしの読書も、その言葉のひとつひとつを時代のなかに置いてみる」ことが基本となる。昭和初期の東京の街角の風景を切り取った映画に対する川本の偏愛は、私たちが現在の繁栄や、利便のために失ったものの大きさに思いを馳せるところからきている。

「都電が隅田川に架かる勝鬨橋にさしかかる。大型船が通れるようにまだ橋が開いていた時代。原節子が乗った都電が橋に差しかかるとちょうど橋が開くところ」千葉泰樹監督『東京の恋人』(昭和二十七年)について語っている川本のうれしそうな顔が浮かんできて、こちらもほほが緩む。同時に、もうこの光景は永久に失われてしまっていることに一抹の寂寥感を抱く。時代がつくり、時代が葬り去ったものは、二度と戻ってはこない。その不在が、私たちの現在を密やかに告発している。

官軍よりは賊軍。北軍よりは南軍。ヒーローよりは悪役。勝者よりは敗者。川本はいつも敗れ去りしものにまなざしを向ける。

本書には、ハリウッド赤狩りを、密告者の側に寄り添って分析した、初期の傑作も所収されている。

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1月 8th, 2015 | Tags:

以下は、朝日新聞社刊 Journalism 2014.10に掲載した論文です。ここに公開いたします。

 

経済とは何か

 ここ数年、テレビ、新聞、ネットの中で、経済成長戦略なる言葉を見聞しない日はない。17世紀後半以降、世界は文明の進展とともに、経済規模を飛躍的に拡大してきた。経済政策が、経済を拡大したのではない。産業革命が起こり、民主化が進展するなかにおいて、経済成長は自然過程だった。

ここ数年の先進国を悩ませているのは、経済成長の糊代がほとんどなくなってしまい、これまでのような拡大成長が望めなくなっていることである。わたしたちのうちの誰もが、経済成長しなくなった世界というものを経験していない。文明史的に概観してみれば、いま、西欧先進国は経験していないフェーズに入っている。つまり、総需要が飽和し、経済成長の糊代がなくなっているということだ。はたして、これは困った問題なのか。先進諸国で起きている総需要の減退が、経済政策の瑕疵によるのではなく、経済成長の結果であるならば、わたしたちはこのあたらしい経済局面に対応する、社会というものをこそ構想すべきではないのか。わたしは、超長期的な人口動態推移や経済成長率推移を調査する中で、経済成長がなくともやっていける社会とはどのようなものになるのかを考えてきた。

一体経済とは何なのか。

株価や、為替レートや、消費者物価指数や、失業率や、GDP数値といった様々な指標が経済を現わしているのか。これらの指標は、人間の諸活動の結果を切り取ったものに過ぎない。経済活動とは、わたしたちの生産活動や、消費活動、つまりは生活を営む上で行っている活動の全てであるが、経済指標なるものはわたしたちの経済活動が作り出した結果なのであって、バブルを作り出すような経済政策によって経済指標を希望の数値に押し上げたとしても、それは一時的なものに過ぎず、長期的には必ず市場の原理と、文明史的な自然過程によって修正されてしまうものだ。問題は、経済指標ではない。わたしたちの経済活動が今、どのような歴史過程をもたらしたのかを知ることであり、そのことに対して何ができるのかを探ることだろう。貨幣量の増加や、金利操作によって可能なのは、せいぜいのところ短期的な数字合わせのような小手先の処方を作ることだけではないのか。

わたしは、日本とアメリカで小さな会社を起業し、毎日経営の現場に身を置きながら、実物の経済は、煉瓦を毎日積み上げるような地道な行為であり、定常的な収穫の場を確保することであると思うようになった。そういった現場の思考に照らし合わせてみれば、バブルを期待するかのような経済成長の号令は、何とも浮ついたものに聞こえるのである。

 

恣意的な経済指標

二つの神話がこの国を覆っている。

一方の経済成長神話は、わたしたちの現実と神話との乖離が徐々に明らかになるにしたがって、その信憑性に疑義が生じてきており、もう一方のアベノミクス神話のほうは、どうやら最初からかなり怪しげな創作物だったのではないかという風評に晒されるようになってきた。

消費税増税前の、2014年3月11日付の朝日新聞デジタルは、「アベノミクス、相次ぐ想定外 経済指標「変調」」なる記事を載せている。その内容は、実質経済成長率が年率0.7%に下方修正され、本年1月の経常赤字が過去最大を更新したというもので、消費税増税前の駆け込み需要が成長率を押し上げると見られていたが想定外のブレーキがかかっていると伝えている。どうやら、アベノミクスは株価を押し上げることには成功したように見えるが、消費の活発化(経済成長)や、格差の解消(生活の安定)に対しては、芳しい成果が上げられていないようである。

それでも多くの国民は、この二つの神話に未来を託そうとしているかのように見える。安倍晋三内閣の支持率は(報道によってまちまちではあるが)依然として40%以上と高く、多くのひとびとがこの政権の経済政策に期待しているかのように見える。

おそらく、この支持率の高さは、集団的自衛権行使の閣議決定や、秘密保護法案の強行採決といった安倍の一方の顔である右翼的な思想と行動に対するものではなく、もっぱらその「希望をふりまく」経済政策に対する支持によるところがおおきいといえるだろう。

実際のところ、2013年12月の自由民主党ウェブサイトに掲載されたコラムには、アベノミクスがいかに華々しい成果をあげているのかを数字をあげて自画自賛している。

その記事によれば、株価は約90%も上がりました、円高は是正されました、失業率は4.2%から4.0%に改善されました、求人倍率は0.83倍から6年ぶりに1倍になりました、GDPの伸びはマイナス3.6から4.5%に延びました、と良いことずくめである。

一方で、朝日新聞の報道によれば2013年の実質成長率は、1-3月期4.5%、4-6月期4.1%、7-9月期0.9%、10-12月期0.7%とジリ貧になっている。

自民党の発表が、数字が右肩上がりの傾向をしめしていた期間を切り取った恣意的なものであることが、徐々に明らかになってきている。

為替レートも、失業率も、求人倍率も、GDPも短期的に見れば、上がったり下がったりしているわけで、そのこと自体には特段の意味はない。どの期間を、どのくらいの時間スパンで切り取るかで、結果は180度変わりうる。

いったい、アベノミクスで本当に経済成長していくのか、それとも効果がないのか、いやまったく的外れな経済政策によって日本の経済を危機に陥れてしまうのか、報道各社や内閣府が公表する数字だけ見ていてもよくわからないのである。

 

経済指標というのは、客観的な真実であるかのように思われているが、実際にはかなり怪しげなものだと思った方がよい。短期的にどの部分を切り取るかで、いくらでも恣意的な数字を拾ってくることが可能だからだ。自民党が拾い出してきた数字は、アベノミクスが成功裏に推移しているということを示す部分だけを拾い出して、ことさらにクローズアップさせているというべきだろう。

何が起きているのかを知るためには、わたしたちは、自分たちの身の回りで起きている事実を冷静に見てみる必要がある。もちろん、それだけで判断すれば、近視眼的なものになる可能性はあるが、実感のない数字だけを見て分かったつもりでいるよりはよほど信頼がおけるはずである。経済数字とは、わたしたちの諸活動の結果なのであり、結果に過ぎない。

そもそも、株価や為替レートなどというものは、実物の経済が作り出すわたしたちの生活の変化を表現したものではなく、もっぱら金融市場という金で金を売ったり買ったりする世界の出来事を反映しているに過ぎない。そこでは、資本の蓄積はできても、どんな付加価値も創造されることはない。

競馬場で大穴が出たとか、パチンコで大儲けしたというニュースと、わたしたちの実際の生活が関係ないのと同じことだ。

このあたりまえ過ぎることが、しばしば見過ごされる。

実物の世界で起きていることと、あぶくのような数字とをよく見分ける必要がある。

自分の賃金は上がったのか、自分の勤務している会社は好調なのか、自分たちの生活は豊かになっているのか、医療、教育、福祉は十分に整備されているのか、失業していた知人は職にありつけたのか。そういう自分と、身の回りの出来事が確かに以前よりも改善してきたと実感できるようになるまでは、切り取られた数字を盲目的に信じないほうがいいとわたしは思う。

政治家は嘘をつくのがほとんど習い性のようになっており、あまりに大きな嘘はスルーされるという当今の風潮がさらに嘘を増殖させている。

オリンピック招致での安倍晋三の、「わたしが安全を保障します。汚染水は福島原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされている」というスピーチを、誰もが嘘と知りながら、どこまでも追求するということはなかった。

政治家に「ヘッドラインを信ずるな」ということまで言われても、報道各社は沈黙した。このメディアを信ずるな、わたしの言うことだけを信じろといった態度がまかり通るということは、「メディアの死」を意味するということを、関係者はもっと真剣に考えてほしいと思う。

オリンピック招致のプロセスが示しているのは、メディアも、ひとびとも、招致が決まるか、決まらないのかといった結果にしか興味がなく、結果さえよければすべてよしといった空気が日本全体に瀰漫しているということである。

「自民党はTPPに明確に反対します」と言って当選した議員が、TPP賛成に寝返っても、TPPの結果が良ければ(とはいっても、まだ結果も何も出ていないが)、無かったことにしてしまう。(このような問題で、明瞭な結果がでるまでには長い時間がかかる)

経済成長も、アベノミクスも今日の日本においては、空念仏のようなものであり、多くのひとびともまた、嘘と知りつつ空念仏を唱えている状態なのかもしれない。

そういった空気の中で、これまでなら賛否両論、大騒ぎになっていたような閣議決定がなされ、審議を尽くしたとは言い難い法案がいくつも国会を通過し、強引なNHK人事、法制局人事がまかりとおり、新自由主義的な政策がつぎつぎに実行されつつある。

わたしたちは、歴史の教訓に学びながら、現在行われていることを厳しく問い直し、夜郎自大な独断や、その場限りのうっぷん晴らしの感情によって判断を誤ってはいないかと問い続けるために、民主主義という政治手法を選択してきたのだ。

メディアに要請されているのは、神の視座からの判断でもないし、民衆の好奇心の赴くところに阿ることでもない。現在進行中の政治プロセスや経済プロセスのなかに、歴史の教訓や、知識の集積に照らし合わせて不条理が混入していないか、ねじまがった信憑が支配していないか、狂信的な独断に指嗾されていないかを、あらゆる歴史の教訓や集積された知識を動員して検証し続けることだ。

報道各社のトップや、ジャーナリストの一部が官邸に招かれて、安倍晋三と食事をしたことが報ぜされているが、取材対象と一緒に飯を食い、酒を飲み、カラオケで歌を唄うなどということをすることが、恥ずべきことであるといった認識はもはや過去のものとなっているのか。

それとも、ジャーナリストとしてのミッションなど心得のない素人が、新聞社やテレビ局に増殖してしまっているのか。

 

常識に照らし合わせて考える、自分の頭で考える

わたしは、本稿で先に示したような経済指標を比較しながら、アベノミクスが成功しつつあるのか、あるいは空念仏なのかというようなことを論じるつもりはない。その理由は、それらの数字の多くが恣意的に作りうるものだという理由だけではない。経済指標がなくとも、今日の経済政策が妥当性をもつものかどうか、安倍内閣の政治的な立ち位置が国益にかなったものなのかを判断するやりかたはある。

今日の問題は、(怪しげな)エビデンスのない論証、つまりは歴史や、文学や、民俗学や、文化人類学などから動員された知を駆使したり、自分の実感に照らし合わせたりする作業を行う地道な努力を、ひとりひとりがしなくなっているところにある。要するに自分の頭で考えるという努力を惜しんでいるということなのだ。

わたしたちが常識であると考えることを積み重ねて行って、つまりはあたりまえのロジックによって、日本が経済成長していくことができるのか、アベノミクスは正しい政策なのかを判定することは可能なのだ。そもそも、アベノミクスとはなんだったのだろうか。もう一度安倍政権の主張を確認するところから始めたいと思う。アベノミクスとは三本の矢からなっている金融財政政策であるらしい。

第一の矢は「大胆な金融政策」でマネタリーベースを2年間で2倍にして、2%の物価安定目標を設定するということ。これでデフレを脱却するということである。

第二の矢は「機動的な財政政策」で、有効と思われる分野に集中的に予算を配分して景気対策を行うというもの。

そして第三の矢が「民間投資を喚起する成長戦略」で、民間投資活性化のために企業減税をしたり、規制を撤廃した国家戦略特区をつくって外国企業を誘致したり、ベンチャー企業が活動しやすくして経済成長の突破口にするというものであるらしい。

らしい、というのは実際のところそれが何を意味しているのか判然とはしない部分が多いからである。

このアベノミクスに賛同するにせよ、批判するにせよ、これらの三本の矢が果たして、日本を停滞から経済成長軌道へと導くのかどうかというのが、論点である。

 

しかし、そもそもこの議論の前提は正しいのかと問うものは多くはない。わたしは、この議論の出発点になっている日本が陥っているデフレ、それから経済成長なくして生活の安定なしという議論は相当に怪しいものだと思っている。デフレとはそもそも何を意味するのか。あるいは停滞とは何を意味するのか。

2013年4月23日の日本経済新聞WEB版にこんな記事がある。「来日中の経済協力開発機構(OECD)のグリア事務総長は23日午後、都内の日本記者クラブで対日経済審査報告を発表した。グリア氏は日本経済の先行きを「15年続いたデフレに終止符を打てるのではないかと思う」と語ったというものだ。安倍晋三総理大臣も同様のことを繰り返し言及している。15年デフレ説である。

わたしが理解しているデフレとは、物価が持続的に下落してゆくことであり、通貨収縮が起きることである。では、15年前の1998年から2013年にかけてそのようなことが起きていたのか。ここに2007年から20014年までの消費者物価指数の対前年比をプロットしたグラフがある。

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社会実情データ図録(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4720.html)より転載

 

この図を見て、2008年から2013年の間がデフレであると言えるのだろうか。リーマンショックのあった2008年から2009年にかけて、国内需要も一気に冷え込み、物価指数に反映されたことはグラフを見れば明らかである。しかし、その影響は2011年には回復基調に転じ、その後2013年までは横ばいの状態が続いている。

わたしの常識では、バブルの崩壊による資産価格の下落、物価の下振れをデフレとは言わない。それは、むしろバブル破裂による急激な市場の調整である。

では、横這いの状態をデフレと言うのか。

この流れは実は90年ぐらいから続いている経済成長しない状況とリンクした物価の定位安定であり、自然な経済の流れは定常状態へ向かっているというべきではないのか。

わたしたちの常識に照らしても、90年以降の物価は安値で安定しており、それが賃金の緩やかな下落による影響を和らげているように思える。

確かにアベノミクスが実行されてからの消費者物価指数は上昇に転じている。しかし、これは「大胆な金融政策」によって通貨量が増えたことによるものであり、人為的に作り出したもので、むしろ不自然な上昇のようにわたしには見える。

不自然と言う意味は、このままマネタリーベースを増やし続ければ、どこかでリーマンショック前のアメリカと同じようにバブルは作り出されるかもしれないが、自然な市場原理によって急激な修正を迫られることになる。

少なくとも、賃金ベースが上昇し、中間層が復活するような傾向を導き出せなければ、この「大胆な金融政策」は一部のビジネスセクターの資本蓄積には貢献しても、国民の生活が安定的に上昇することには寄与しない。事実、格差の方は拡大傾向が続いており、低賃金労働者にとっては、物価上昇は実質的な賃金ダウンになっている。

第二の矢の「機動的な財政出動」はどうか。

有効と思われる分野に集中的に予算を配分とはいうが、何をもって有効な分野を選定するのか、産業育成に関する中期的長期的な展望が示されなければ、たんにGDPを押し上げる短期的な分野への選択と集中が行われることになる。3.11を経験し、未だに希望の見えない被災地復興に対して有力な手が打てていないばかりか、オリンピック誘致に浮かれる都市部の土木建設分野に人手を奪われ、被災地の土木建設要因が不足していると聞く。だいたい、民主党政権下で行われ、耳目を集めた事業仕分けによる公共事業の見直しはどうなったのか。確かあのときはこれ以上財政赤字が膨らまないように、子孫につけを残さないように無駄をそぎ落とすという名目で行われたはずである。自民党の議員たちも激しく、公共事業の無駄を追求していたはずだが、今回の財政出動は反対の方向を向いてはいないのか。財政赤字を減らすという目的と、機動的な財政出動という二律背反をどのように説明するのだろうか。それとも、消費税の値上がり分で、税収を確保しようというのだろうか。

そして、第三の矢の「民間投資を喚起する成長戦略」。この民活戦略もまた、右肩上がりのときにのみ有効に機能する戦略であり、経済が横這いないしは右肩下がりの局面においては、民間部門は激しいコスト競争に晒され、けっきょくそのツケは低賃金労働者が支払うことになる。格差はますます拡大し、労働環境は荒廃することになるだろう。

アベノミクスの三本の矢で示される戦略は、そもそもその出発点において本末転倒したものになっている。お金をばら撒いて成長の環境をまず作り、以後は経済成長時に機能するような施策を打ち出していくというのがそのシナリオなのだろうが、これはバブルを人為的に作り出し、次にバブルに相応しい経済政策を打ち出していくということと同じである。現状の経済状況を「悪」とし、その「悪」を是正するために改革を実行するというロジックを採用している。

果たして、現状の経済状況とは何かと言うことに関する、冷静な判断はなされてきたのか。

バブルは確かに、人為的に作りうる。インフレも人為的に作りうる。しかし、長期的な経済のトレンドは、人間の諸活動の結果なのであって、金融政策や財政政策によって作られるものではない。経済政策とは、こういった長期的なトレンドのなかで、一国の国民生活に不具合な事態が生じないために、いわば、事後的な対策として再分配や、金利調整や、財政出動が行われる。

現状と乖離したゴールを定めて、現状変革の方策を次々に打ち出していくやり方は、利潤の最大化という単一目標を掲げて投資―回収のゲームを行っている株式会社においては、有効なやり方かもしれないが、さまざまな目的や、出自、価値観を持つ国民を束ねた国家においては、機能しない。それでも、それを機能させようとすれば、国家を株式会社のように運営すること、つまりは独裁的な国家運営を行うしかないのである。

そもそも、2005年に前後して、日本の人口がドラスティックに減少し始めており、今後日本が持続的な経済成長を続けていく基盤が崩れつつある。高度経済成長とは、発展途上段階の経済現象であることは、日本の1973年までの高度経済成長や、現在のBRICsの経済成長を見れば明らかである。

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(グラフは、2011年通称白書) http://www.meti.go.jp/report/tsuhaku2012/2012honbun_p/2012_01-1.pdf

 

ヨーロッパ先進工業国において、とりわけ人口増加が終わった国においては、高度経済成長は有り得ず、長期スパンで見れば、よくても2%前後の成長に留まっている。仮に経済成長していたとしても、当該国においては格差の拡大が深刻化するという結果になっている。

この原因をひとことで言うなら、先進国の総需要が減退したということであり、このことをもって、経済が停滞したというのはあくまでも、経済成長ありきでものを考えてきたものたち、とりわけ多国籍企業の言い分であり、むしろ経済は右肩上がりという不安定な状況から横這いへと安定傾向を示し始めたと読むほうが自然であるように思えるのである。

「自然である」とは文明の発展史として理に適っているという意味である。

文明史的に見れば、総需要の減退は経済政策の失敗や、市場の失敗によって起きているのではなく、まさに経済成長の結果として起きていることだからである。

勿論、これまで年金システムも、保険も、クレジットカードシステムも、銀行も、右肩上がりの経済のときに考案されてきており、ゼロ金利の状況下では様々な不具合に晒されることになるだろう。

だからこそ、必要なのは、経済成長戦略なのではなく、経済が成長しなくともやっていけるような戦略を早急に考案する必要があるのだ。

しかし、この成熟国家戦略は、当然のことながら現在の世界経済を牽引している株式会社というシステムにとっては受け入れがたいものだろう。

おそらくは、今後半世紀から1世紀の間、どこまでも経済成長戦略に固執する株式会社の論理と、国民国家のフルメンバーが生き延びるという目的によって作られる成熟国家戦略が激しく争うことになるだろう。

残念なのは、成熟国家戦略を担う政治家はいまのところ我が国にはほとんど皆無であることである。成熟国家戦略を模索しているのは、株主の影響を回避できている一部の企業家、長期的なスパンで経済現象を見ている経済思想家、定常経済を志向している中小企業経営者や商店街事業主、安定を志向する市井の人々である。こういった人々の叡智を結集して、成熟国家へ向かう道筋を示すことが必要なのだが、日本がその先陣を切る可能性はあるのだろうか。

すくなくとも、アベノミクスが指し示しているのは、成熟国家における経済成長モデルという自己矛盾であり、このままこういった政策を続けて行けば、格差は拡大し、国民国家とは名ばかりの、特権階級や多国籍企業のためのコーポレート・ヘイヴンとしての国家へ行き着く他はない。

 

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4月 4th, 2014 | Tags:

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町から喫茶店が消え始めたのはいつ頃からだろうか。

学生時代のわたしは、渋谷、新宿の裏町を毎日のように彷徨っていた。七十年代の中頃のことである。歩き疲れたときは必ず喫茶店に立ち寄り、あまりおいしいとはいえないコーヒーを飲みながら、タバコを吸い、本を読み、ときおり居眠りをした。

当時は、町のいたるところに喫茶店があった。ほとんどは一人か二人で店を切り盛りしているような小さな喫茶店で、いつ行っても混雑している光景にはめぐり逢わなかった。その空間は、当時のわたしのような無為徒食の青二才が、安心して荷物をほどき、くつろげる数少ない場所であった。

東京渋谷の道玄坂を登っていくと、「ライオン」という名曲喫茶があり、コンサートホールを擬したつくりの薄暗い部屋の正面には、一階から二階までぶち抜きの巨大なスピーカーがあった。わたしは、高田の馬場にある大学に通うための山手線を途中下車して、道玄坂を登って行った。ついには毎日入りびたり、日がな一日をそこで過ごした。

何もすることがないのに、いつもの決まった座席に座り、詩や評論やときには小説家のまねごとをして過ごし、夜になると仕事終わりのサラリーマンの列に紛れ込んで家に戻った。

喫茶店は、どんな経済効果もどんな生産性も期待できない場所である。それでも、そこはわたしにとっては町の大学だった。町には、こういう場所が必要なのだ。

最初の問いに戻ろう。八十年代の終わりごろ、町から喫茶店が姿を消し始めた。ドトール一号店が原宿の駅前にできたのが1980年。わたしは間近で翻訳会社を経営していたので、この店のことをよく覚えている。狭いが清潔な店舗は、立ち席だけだったように記憶しているが、コーヒーの味がそれまでの喫茶店のものとは段違いに良かったのに驚いたものである。それでもわたしは煮立てたようなコーヒーを出す喫茶店に通い続けた。1996年には東京銀座にスターバックスが進出してきた。この全面禁煙のチェーン店に入ったとき、お客さんの視線が「あんたの居場所はないよ」と言っているように思えた。

これらのチェーン店が街角に現れるようになるのとうらはらに、町から喫茶店が少しずつ消えていった。確かに、チェーン店で一杯200円でコーヒーを出されれば、町の喫茶店は競争のしようがない。一日30人の客がコーヒーを飲んでくれても六千円にしかならない。そこから原価や諸々の諸経費を差し引けば家賃も出ない。

八十年代の中ごろの土地バブルによって、土地はそれ自体が利益を生む金の卵を産む鶏になったのである。土地所有者は、細々とした喫茶店からの上がりを待つよりは、マンションや、駐車場にして効率よく資産運用したいと思ったのだろう。喫茶店の在った場所がコインパーキングに変っているのを見るのは辛いものだが、それはこちらの勝手な都合である。

これらの理由以上に喫茶店の消長に拍車をかけたのは、日本人のライフスタイルの変化だろう。喫茶店の椅子に座ってボーっと半日を過ごすような人間が生きていくのが難しい時代になったのである。当時のわたしのような生活をしていたら、アルバイトの収入では食べるのがやっとで、コーヒー代を払って無為の時間を過ごす余裕はすでにない。喫茶店主にしても、お客にしても、非効率のモデルのような場所が喫茶店なのだ。いや、経済的な理由だけではない。喫茶店での無為の時間とは、本を読んだり、書き物をしたり、議論を戦わせたりする時間であり、文化が育まれる場所でもあった。こういう文化自体がすたれ、ひとびとは駅前で朝のコーヒーを飲んで仕事へ向かいバリバリと稼ぎを増やすことに熱中し始めた。気がつけば日本は、世界で最も流動性の高い経済国家になっていたわけである。

今年、わたしは友人たちと地元の町に喫茶店を開業した。町にじぶんたちの根拠地をつくりたいという理由から、資材を集め、本を運び入れ、古道具を並べた。いま、喫茶店の椅子にすわりながら、これを書いている。俺たちの居場所を確保せよと呟きながら。

 

路地裏の資本主義(8) 喫茶店が消えた理由 はコメントを受け付けていません。
2月 26th, 2014 | Tags:

 

tonarimachi

 

2014-02-22 17.42.04

 

 

大田区立大森第七中学校の同級生であった、平川克美、駒場徹郎、伊坂義夫には、ひとつの共通点があった。

三人とも、大田の町工場のせがれだということである。

わたしたち三人が生まれ育った工場の町は、いまではマンションや戸建て住宅の立ち並ぶ住宅街に変貌している。

2012年の春、わたしたちは大井町の駅から、羽田浦を目指して町歩きをする計画を立てた。

目指すところは、東糀谷に今も残る工場の町であった。

大田区で旋盤工として働き続けた作家、小関智弘さんが『錆色の町』という小説で描き出した、羽田浦にあった工場の町はいまでも何軒もの町工場が立ち並んでおり、それは三人が生まれ育った頃の、千鳥町、久が原の町の面影を残していた。

この小旅行をきっかけにして、わたしたちの隣町探偵が始った。

最初の探訪地は、わたしたちの町から一キロほど離れた隣町、武蔵新田であった。

そのとき、わたしたちは自分たちが育っ

た町について、あるいはその隣町についてほとんど正確な知識を持ち合わせていないことに気付くことになった。

わたしたちは、自分たちの町について何も知らない。

これは驚くべきことであった。なぜなら、それはわたしたちが何ものであるかについて、わたしたちは知らないということを意味しているからである。

わたしたちは、どこから来たのか。

それから、わたしたちの精力的な隣町探偵が続けられることになった。

暗渠になった呑川。大井三業地。蒲田にあった田園都市。勝海舟縁の洗足池。工場の町東糀谷。武蔵新田旧遊郭。足を延ばして洲崎パラダイス跡地・・・。

わたしたちは、自分たちが生まれた町や、その隣町、いやもっと範囲を広げて東京という町について、もう一度系統的調査し、史跡を訪ね、先輩に聞き、町の歴史を語り継ぐことを、還暦後のミッションであると感じていたのである。

「隣町探偵団」としての最初の仕事は、昭和の名匠にして、日本映画史の礎をつくった小津安二郎の

サイレント時代の名作「生まれてはみたけれど」のロケ地探索の旅であった。この旅の記録は、

現在平川克美がまとめており、自由が丘の出版社であるミシマ社のWEBマガジンに連載中である。

そして、2014年3月、隣町探偵の拠点である「隣町カフェ」を荏原中延の地にオープンする運びとなった。

以下はカフェオープンまでの足どり。

2012年4月29日 大井町→羽田浦→穴守稲荷神社→東糀谷

2012年5月21日 岡山県備前探訪

2012年6月24日 都電荒川線の旅

2012年7月29日 洲崎旧遊郭跡探訪、深川不動

2012年8月25日 「小商いのすすめ」「俺に似たひと」出版記念式 高輪プリンスホテル

2012年9月15日 江戸東京建物園探訪

 

2013年1月20日 武蔵新田旧遊郭跡探検、旧鎌倉街道と新田神社

2013年2月10日 丹沢広沢寺温泉

2013年2月16日 洗足池周辺探訪

2013年2月23日 鬼怒川温泉旅行

2013年3月10日 呑川源流をたずねる

2013年4月7日  小津安二郎の映画の舞台となった蒲田探訪

2013年9月22日 名古屋美術館

2013年12月7日 隣町ジャズナイト開催

 

2014年3月4日 池上線荏原中延に「隣町カフェ」オープン

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1月 14th, 2014 | Tags:

北海道新聞で不定期に連載している『路地裏の資本論』

地元以外ではあまりご覧いただけないでしょうから、ここに掲載したいと思います。お読みいただければ幸いです。

 

イザベル・ホランドの小説『顔のない男』は、メル・ギブソン主演、監督で映画化されて『顔のない天使』となった。過去に事故で生徒を死なせてしまい、自らも顔に傷を負った教師と、孤独な少年の物語は心に響いた。

政治の世界にも顔のない男は登場した。旧東ドイツの秘密警察シュタージの対外諜報部門を誰が操っているのか長い間謎であった。その男マルクス・ヴォルフは、名前も顔も知られていないが確かに存在している「顔のない男」であり続けた。かれらは、やむなく匿名性の存在になった。匿名性に逃げ込むことで、自分に及ぶ危害から身を守ろうとしたわけである。

ところで、この時代のわたしたちは誰もが顔のない男だ、と言ったら奇異に響くだろうか。現代における、顔のない男とは、個性の乏しい、凡庸な、いつでもどこでも交換可能な、誰もその顔を覚えていないような人間のことである。そんな人間がいるわけはないじゃないかと言われるかも知れない。

しかし、ツイッターやフェイス・ブックの中に登場する無数の匿名の人間たちは、もともと、本人と特定されるような顔も名前も持たぬ人格を選び取ったものたちである。ソーシャルメディアにおいて匿名で発言することに関する是非について、ここで論ずるつもりはないが、匿名の氾濫は現代を特徴づける現象であることに異論はないだろう。ソーシャルメディアにおいて、匿名であることのメリットとデメリットは、実名を晒すことのデメリットとメリットに対応している。つまり、顔を晒して発言をすれば、政治的な敵対者や嫉妬にかられたものから標的にされるという危険があるが、匿名ならリスクは減ずる。 逆に匿名の、いつでも交換可能なアバタ―(分身)が得た評判や栄誉は、実名で得られるような自尊心を満足させることはないだろう。顔も名前もないということは、自らの発言に対して現実的な責任を免れることが可能だが、責任を回避した分だけ「その他」一般として存在する他はないということでもある。

匿名の存在とは、インターネットの中にだけ存在しているわけではない。

都市空間の中で、商品とお金を絶えず交換しているわたしたち消費者こそは、まさにその匿名性において「消費者」になったといえるのではないだろうか。大量生産、大量消費が支配する市場のなかで、消費者はただの記号であり、数値でしかない。わたしたちは、市場に投入された商品がなければ生きられなくなっている貨幣運搬人である。

現代の消費者は、コンビニエンスストアの店頭で、会話もしなければ、ほとんど顔をあわせることもない。商品の金額がレジのモニターに打ち出されれば、その金額のお金を財布から出して商品を受け取るだけの存在である。

市場において、わたしたちが、顔と名前を取り戻すのは、皮肉なことに、クレイマーとして名乗りを上げたときだけなのである。クレイマーは要注意人物として顔と名前を識別される。

映画の中の主人公たちは、最後は顔を回復し、人間性を取り戻す。東独のスパイは、後にスパイ小説のモデルになった。わたしたち顔のない消費者は、どのようにして自分の顔を取り戻せばよいのだろうか。

かつて、町内の商店街で、毎日買い物をしていた人々は、匿名の消費者ではなかった。売り手はひとりひとりの顧客の顔色を見て、かれらが何を必要としているかを察知し、声をかけ合い、お互いの家族についての情報や、町の噂話を共有している顔見知りの隣人のひとりであった。わたしの母は、晩年足を引きづりながらも、同じ時刻になるとカートを押して商店街へ出かけて行った。母の死後、箪笥の奥から、封を切っていない下着や、洋服が沢山出てきた。

なぜ?とわたしは思ったが、すぐに了解した。母は消費者として商店街へ赴いたのではない。見たい顔がそこにあり、話しかけるひとがそこにいただけなのだ。

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12月 31st, 2012 | Tags:

「移行期的混乱」を生きるということ

平川克美 hirakawa katsumi

●歴史的な人口減少
 「移行期的混乱」とは少々耳慣れない言葉かもしれない。誰も、これまでこのような言葉を使って現代の時代性というものを言いあらわすことをしてこなかったから、それも当然だろう。私は二〇一○年に、出版社からの要請に応えて、日本の現状分析に関する本を書き、そこに「移行期的混乱」というタイトルを付した。
 そもそも私は、「移行期的混乱」という言葉で何を言いたかったのか。それをひとことで言えるなら一冊の本を書く必要もなかったのであるが、本稿の読者のために、なるべく噛み砕いてご説明しておきたいと思う。そもそもの発端は、二〇〇六年をピークにして日本人の総人口が劇的に、しかも長期にわたって減少し始めたことについて、これをどのように考えるべきかというところにあった。この人口減少問題に関しては、政府もメディアも経済評論家も、これは由々しきことであり、その原因は「将来に対する不安」という圧力が社会に蔓延してきた結果であり、この「将来に対する不安」を取り除くための経済的、心理的、社会的な対策を早急にすすめるべきであると言っていたと思う。だから経済成長を再軌道に乗せなくてはならないと。実際、少子化対策として政府や自治体は子育て支援金の支給や、出産助成プログラムを立ち上げてきている。
 これらの少子化対策は、極めて短期的な時間スパンのなかではカンフル剤的な効果があるかもしれないが、歴史的な人口減少ということに関してはまったく何の効果も生まない、いやむしろ逆効果になる可能性が高いと私は考えている。その理由は同書のなかに詳しく述べたが、簡潔に言うなら、現在の総人口の減少は、将来に対する不安や経済の縮小による先行きの不透明感によってもたらされたのではなく、むしろ反対に社会の進歩の帰結として起きていると考えているからである。そもそも、人口が減少すると大変だから、経済を何とかしなければならないというのは、問いのたてかたが間違っている。人口減少は、「答」なのだ。
 経済成長し続けるためには、人口は一定の割合で増加しなければならない。それはそのとおりである。経済成長の指数であるGDP(国内総生産)とは、消費側から見れば国内総消費と、投資、政府支出および輸出入差額の総和であり、当然のことながら総人口による消費が大きなウエイトを占めている。しかし、経済成長するために、総人口を増やさなければならないというのは本末転倒の議論である。総人口の増減は、人工的に増やしたり減らしたりできるような単純なものではない。経済成長しなければならないというのは、希望ではあっても冷静で正確な認識とはいえない。いまのところ、向こう何十年にわたって人口が減り続けるという事実だけがわかっている。
 だから、少子化を食い止めなければならないという問いに先行すべきは、蓋然性の高い少子化にどう対応すべきかということであるはずなのである。
 なぜ、社会の進歩は、人口減少を伴うのか。民主主義が進展し、経済成長が進むと人口が減少するのかについては、さまざまな見解があるだろうが、それらが人口減少フェーズと密接な関連を有していることは、歴史人ロ学者のエマニュエル・トッドらが集めた統計が雄弁に語っている。エマニュエル・トッドは、民主主義の進展プロセスのなかで、女性の識字率が向上し、社会的な地位が上昇すると結婚年齢が上昇し、少子化傾向になると述べている。(ちなみに「移行期的混乱」という言葉は、トッドが民主主義が新しいフェーズに入るときに旧パラダイムと激しく衝突することを「移行期危機」と述べたことからの着想である。)このことの意味は、人口減少とは、多くの政治家、識者、文化人、産業人が言うように経済成長鈍化の原因であるというよりは、経済成長の結果であり、民主主義発展の歴史的帰結であるということである。日本は今、人口減少の危機にあるのではなく、増えすぎた人口規模を適正人ロへ戻す人口調整フェーズにあるということである。
 そして、この人口調整フェーズが落ち着くまでの数十年間のあいだ、右肩上がりの経済に牽引された社会の価値観や倫理が、現実に起きている社会基盤の移行のなかで大きく揺らぐことになる。私は、このことを「移行期的混乱」と呼んだのである。

●増殖する重貨幣主義
 『移行期的混乱』という本を書いている前後の数年、国際的にはリーマン・ショックとそれに続く世界同時不況があり、国内でもさまざまな企業不祥事が頻繁に起きていた。
 二〇〇〇年から二〇〇九年のわずか十年のあいだに、雪印集団食中毒事件、日本ハム牛肉偽装事件、三菱自動車リコール隠し、耐震強度偽装マンション販売事件、ライブドア証券取引法違反事件、村上ファンドインサイダー事件、コムスン介護報酬不正受給事件、不二家期限切れ原材料使用事件、ミートホープ食肉偽造事件、飛騨牛偽装事件、船場吉兆廃業などなど、目立った事件だけでも枚挙にいとまがない。
 企業不祥事は、これ以前にもあったが、これほど集中的に起きたことはなかったし、食品偽装や建築偽装といったものづくりの根幹が揺らぐというのもはじめてのことだろう。なぜ、こんなことがこの時期に限って頻発したのか。
 これについても、評論家、メディア、学者の見解は私を満足させるものではなかった。かれらは、コンプライアンスの意識の薄い悪徳経営者が跋扈(ばっこ)し、企業倫理が地に落ちた結果だと言っていたように思う。
 しかし、実際にテレビ画面に映し出されたこれらの企業の経営者たちの顔を見れば、そこにあるのは倫理観も、道徳意識もごく普通の経営者のそれであり、かれらも家に戻れば良き父親であったり、かれらを指弾するマスコミ人と同様の価値観をもった人間であるとしか思えなかった。世に、明らかに倫理を踏み外した極悪非道のものや、明らかに精神を病んだ犯罪者というものがいないとは言わないが、こと企業不祥事の経営者たちについてはそのどちらにも当てはまらないと考えるよりほかはなかったのである。
 つまり、これらの不祥事はひとりの倫理を踏み外した個人が行ったのではないということである。では、何がこれらの不祥事を引き起こした素因をつくったのか。
 それを説明するのは容易ではないが、あえて簡単に言うならばそれは、経済成長こそが人々を幸福にするのであり、お金こそがこの世の中の最も重要な価値であるという、ここ数十年間に世界中に流布した「物語」の結果だということである。この「物語」は、二〇〇〇年前後に世界を席巻する、所謂グローバリズムという新しい自由主義によって補完され、ほとんど最終的な形態、つまり重貨幣主義とでもいうべきものとして世界中に瀰漫(びまん)していったのである。そこでは、じつに夥(おびただ)しい数の「新しい」考え方や、価値観が動員されることになった。たとえばそれは、株主資本主義(会社は株主のものであるという考え方)であり、時価総額経営であり、金で買えないものはないといった価値観であり、富者がより富むことで貧しいものにもその雫がしたたり落ちてくるといった社会システムのアイデアであり、自己決定、自己責任、自己実現といった個人倫理であった。そして、この「物語」を完成させるエンジンは、合理的経営であり、コストの外部化であり、効率化というものである。
 多くの企業が、株価を上げることに腐心し、コストダウンに躍起になり、生産の現場には効率化一辺倒の号令が響き渡る。このことをどこまでも推し進めていけば、いや、これらの価値観が企業にとってのプライオリティであると信じる人々が一定数を超えれば、企業はいとも易々と禁じ手としてのコストダウン、つまりは不良在庫の再利用や、手抜きや、材料の偽装といったところに踏み込んでしまうのである。なぜなら、企業の目的は、利潤の最大化であり、株主主権のもとではそのことを推し進めることこそが経営者の目的であるからである。その目的に適った行動こそが経営者の倫理でもあるという考え方が、一般社会の倫理と倒立してしまうのだ。このことこそ共同体というものがもつ大きな特徴でもある。すなわち、共同体の内部の倫理は、外部のそれとはしばしば倒立して現れるものであり、そのことがまた共同体の結束を担保する。
 戦時中の日本陸軍の暴走も、オウム教団の凶行も、あるいはもっと一般的な大学の体育会も、その内部での価値観が如何に世の中の価値観と相容れなくとも、その内部においては正義であり、信憑(しんぴょう)の対象であったことなどはその好例だろう。
 しかしながら、ここにきて、夥しい企業不祥事を生み出す背景となった重貨幣主義、経済成長至上主義というものが、大きな危機に遭遇している。
 その最大の兆候こそが、日本におけるドラスティックかつ長期的な人口減少であり、それは同時に、私たちは、もはや経済成長至上主義や重貨幣主義とは異なった価値観を生み出すことなしにはやっていけないかもしれないということを示唆している。
 そして、まさにこの重貨幣主義の黄昏というべきときに、誰も考えもしなかったような出来事がこの日本列島を襲うことになったのである。

●三・一一以後
 その出来事とはもちろん、二〇一一年三月十一日の東日本大震災とそれに続く大津波、そして福島原子力発電所の事故である。
 震災も津波も、これまで日本は数多く経験してきた。歴史時間を長くとれば、それはほとんど定期的に訪れてきたといってもよいほどである。そして、その都度人々は家や財産や田畑を失い、途方に暮れながらもなんとか生き延びてきたのである。だから現在があるといってもよいだろう。自然災害と日本人はほとんどひとつの機縁で結ばれており、日本人の人生観のなかには、諸行無常が深く織り込まれている。
 この度のような百年に一度、あるいは千年に一度の大震災であったとしても、日本人はそれを宿命のように受けとめて、必ず再起するだろうことは想像に難くない。しかし、今回はそこにまったく新たなものが加えられてしまった。
 原発事故である。
 このことの意味をまだ誰も明確には把握できていない。いや、これから先もこの事故が何を意味するものかについては、明確な答を得ることはできないのかもしれない。
 たとえば、福島原発三号機で使用されていたMOX燃料には、プルトニウムが含まれているが、このプルトニウム二三九の半減期は、二万四千年であるという。いま生きている人間にとっては、二万四千年という数字はただの記号であって、それが何を意味するのかほとんど不明であり、実感することも想像することもできない。
 この想像の外にあるものを使って、現在の生活を担保するためのエネルギーを生み出すということをしているわけである。想像の外にあるものが、私たちの生活圏の地続きに存在している。(もともとは、自然界にもほとんど存在していなかったものだという。)
 私は、以前書いた『経済成長という病』(講談社、二〇〇九年)という本のなかで、地震についてこう書き記した。

地震は、当然のことながらそれ以前にも一定の周期で、日本各地に大きな被害をもたらしていた。だから将来のどこかで、必ずおおきな地震災害に見舞われるだろうという可能性については、誰もが考えていたはずである。問題はそれがいつ起こるかであって、起こるか起こらないかということではなかったはずである。

 関東大震災に関する記述であるが、今回の原発事故にいたるまでの、政府、電力会社、メディアが行ってきた原発推進キャンペーンを見ていると、まさに地震がいつ起こるかということではなく、起こるか起こらないかわからないことのためにコストをかけるのは経済合理性に反しており、結果として巨大地震などは起こらないし、起こったとしても原発だけは大きな被害を蒙(こうむ)ることはないという信憑にいきついたと考えるほかはない。思考停止である。ましてや、プルトニウムの二万四千年に関しては、ほとんど思考すらできないおとぎ話と考える他はなかったといえるだろう。
 私たちの想像力のなかに、二万四千年は存在していないのである。にもかかわらず、現実には生活のなかに二万四千年の間猛毒を発生させる物質を囲い込んでいる。この矛盾を解決するために、私たちは、しばしば手に負えないもの、想像力のおよばないものを、無いものとして思考の圏外に追いやってやり過ごそうとしてしまう。
 同じようなことは、二〇〇八年に起きたリーマン・ショックのときに、モラルハザードを起こしている金融機関でも大きすぎて潰せないといわれていたことを想起すればよい。手に負えないものは、なかったことにするということである。
 想像力の圏内、つまり自分たちの経験してきたことから大きく逸脱するような事態は、起こりえないと考えてもよいという考えかたが瀰漫したのは、経済合理性というものが極めて限定的な時間のなかでしか有効でないにもかかわらず、経済合理主義こそが世界の道理であると信じ込まされてしまったからだ。それでうまくいった経験を共有しているからだ。
 この経験が、私たちの思考にバイアスを与える。生きてきた時間のなかで起こらなかったことは、これから先も起こることはないと考えてしまう。私たちの生活を一変させてしまうような事件や、事故や、天災に関しては、起こらないであろうと。しかし、それは単なる希望であって、正しい認識ではない。
 「移行期的混乱」の時代を生きるとは、これまで思考停止してきた、起こりえないことが次々と起こる可能性のただなかを生きているということにほかならない。日本における有史以来の人口減少が示唆しているのは、私たちの作り上げてきたシステムの賞味期限が尽きてきたということであり、この経済成長至上主義を点検して、新たな生き方を模索せよということでもある。だが、まだ誰もこのことを切実な問題として考えてはいない。

(この文章は2011年12月に雑誌「アンジャリ」(親鸞仏教センター)に発表したものです。)

『移行期的混乱』文庫化記念に、以前書いたものを掲載します。 はコメントを受け付けていません。
11月 6th, 2012 | Tags:

田中真紀子文科相が、来春開校を予定していた札幌保健医療大学、愛知・岡崎女子大学、秋田公立美術大学の三校の新設を不許可にした問題が、教育の現場を混乱させている。これまで、準備をされてきた関係者や、受験を目指していた学生には気の毒というほかはない。田中文科相の説明によれば、大学が多過ぎるし質も低下している。したがって将来のために全体的に抜本的に見直しをするということである。これまでの申請過程や審議を無視した無理やりで唐突な説明だが、おっしゃることにまったく理がないわけではない。人口減少社会を迎えて、多くの大学で定員割れが起きているのも事実である。しかし、民主主義は理よりも手続きを大切にするシステムである。「理に働けば角が立つ」ではないが、現実の世界において理はときおり、思わぬ混乱を呼び起こしたり、独善的な理は無意味な紛争の原因になったりする。この度の田中氏の決定は、民主主義の意思決定プロセスをないがしろにしたものだと言わざるを得ない。

一方、安倍信三自民党総裁は、田中氏を「異常な行動をする滅茶苦茶な人」だと非難したそうである。安倍氏は、教育改革には熱心で前回の内閣のときに「教育再生会議」なるものを山谷えり子氏の主導のもとに組織して、抜本的な教育改革に着手しようとしていた。そのメンバーを見ていると、現場の教師よりはビジネスマンや評論家が優勢である。
田中氏と安倍氏は互いに全く相いれない政治家のようだが、教育に関して両者に共通しているのは「抜本的に改革」しなくてはいけないと考えていることである。
 多くの政治家、財界人は、現状を憂うるに教育の劣化の問題を取り上げ、日教組やゆとり教育が日本人の教育を劣化させたと言い募っている。

どうやら、戦後の日本の教育は政治家や財界人にとって、その制度や仕組み、教員の選抜などにおいて失敗であり、その結果として今日のていたらくを招いていると言いたいようである。しかし、かれらもまたその教育制度の中で政治や経済を学んできたはずである。自分たちは例外的に教育劣化の被害を受けずにきたとおっしゃりたいのであろうか。

 そもそも、日教組の運動が教室での教師の質を低下させたとか、あるいはゆとり教育が子どもたちから競争力を奪ってきたという考え方には妥当性があるのか。わたしは現在還暦を過ぎた年齢だが、わたしの世代の多くは日教組運動が活発な時代に小中学校の教育を受けている。しかしわたしにもわたしの周囲の知人の記憶の中にも、政治的な偏向した教育を受けて思想がねじまがってしまったという声を聞かない。(いや、お前がいま書いている内容自体、歪んだ教育の成果だと言われるかもしれないが。)ゆとり教育を受けた世代は、現在成人を迎えているはずだが彼らが国際的に劣っているという話も聞いたことがない。
わたしは、むしろ若い方々のなかに利他的で公共性を志向する人々が育ちつつあると感じる方が多いのである。教育に問題があるとすれば、必要以上の競争原理を教室に持ち込んだために、いじめや自殺につながる問題が起きていると考える方が自然である。韓国では、過酷な受験による選別教育の結果、この年代の自殺者が世界一になったと報じられている。

 教育はどうあるべきかに関する議論はすべきだろうが、わたしは任期の限られた政治家や、短期的な利益を重視するビジネスマンが、現行の教育をいじくり回すことには反対である。人間が作り出した制度には、いじればいじるほど壊れてしまうものがある。教育という息の長い制度やその中に流れている慣習は、現在的なビジネスの論理や、政治の論理とは異なる自立した論理を内部に育んできている。教育はサービスでもなければ、ビジネスでもない。そこに学ぶひとびとが、考えるということを起動させる場であり、徹底的に考え抜くための機会を与えるところである。わたしが職を得ている立教大学の吉岡知哉総長は、昨年の大学院での卒業式の祝辞のなかで、大学は考える「技法」を習得する場所であり、「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為だと述べていた。こういうことを現下の大臣からも、「教育再生会議」からも聞くことはないだろう。

教育をいじくり回すひとびと はコメントを受け付けていません。
10月 26th, 2012 | Tags:

最近、よく死んだ親父に似てきたなと思う。都会人のふりをしているが、日焼けして皺を刻んだ工場労働者の顔である。
「人間四十になったら顔に責任をもつべきである」とは、エイブラハム・リンカーンの言葉だが、こういう利いた風な言葉というものは独り歩きするものである。誰も本当は、自分の顔になど責任を取れない。ただ、こういった言葉が年を経ても言い継がれるには、やはりこの言葉のどこかに真実が含まれており、誰もが思い当たる経験を持っているからだろう。私も時々、この言葉が頭の中に浮かんでくる。
その時私は、ちょいとした買い物をして駅裏の路地裏を物色していた。そこに間口一間ほどにカウンターをこしらえたたこ焼き屋を見つけた。
「どうだい。商売は。」
「見てのとおりでさ。場所がワルいのかなぁ」
「食い物屋はやっぱり、場所でしょ」
「駅前にも屋台があるだろ。あれに負けるわけはないんだけどね。 どう、一杯。ビールおごるよ」「いや、そんなわけには」
「やっぱり、場所かな」
「場所でしょ」
あやうく、じり貧のたこ焼屋にビールをおごられるところであった。駅前の屋台は、私も食べたことがある。味はこっちの閑古鳥の方がいい。しかし、どう見ても場所が悪い。地の利というものがない。それで、おやじはひがな、大沢在昌のミステリを読んでいる。後日同じ場所に行ってみると、シャッターが降り、このたこ焼き屋はつぶれていた。「ビールどうだい」と言った時の人の良い顔が思い出された。いい顔をしていたのだ。
 俗に、天の時、地の利、人の和というが、こういうことを、商売の要諦のように言うものは大体信用できない。いつぞや、九州から出てきて、渋谷の駅前に土地を買いまくり職業学校やら、ビジネスセンターやらを手広く開業している学校経営者の演説を聴いたことあった。その社長は、駅前五百メートルに、立地するのがビジネスのコツである、と息巻いてこう続けた。「人生すべからく、天の利、地の利、人の利。」おっさん、そりゃ違う。天の利じゃなくて天の時だ。あんたは、何でもかんでも「利」に結び付けて考えている。そりゃ因業ってものだ。フロイトは、いい間違いには、その人間の深層心理にある欲望が現れると言っている。この社長の場合は、いい間違いというよりは、記憶違いだろうが、まさにその記憶の仕方のなかに、本人の欲望が現れている。「利」の独り占めであり、反対に言っていることの「理」は薄い。こういう経営者の下で働くのは大変だろうと思って聞いていると、壇上に社員数名が呼び出された。社長は彼らをあたかも手下か、奴隷のように「こいつらは頭は無いが、汗は人一倍かける根性だけはある」といった意味の言葉で紹介した。わたしは、少々げんなりとして、会場を後にした。彼の顔が嫌だったのである。その顔はこう言っていた。「皆さんだって利にしか興味はないんでしょ。」それは一片の真理だが、それでも私は同類にされたくなかったのである。
 その学校経営者は何年か後に、「強制わいせつ罪」で捕まってしまったのだが、一度仕事の相談で彼と話をしたことがあった。俺は出会った瞬間にある種の危険を感じた。それは、彼の強欲によって自分の中の倫理感や職業観が蹂躙されるかもしれないという危険ではない。彼の中にある欲望というものが、俺の中にも(誰の中にも)存在している欲望を目覚めさせてしまうかもしれないという危険を感じたのである。
人間の欲望というものは、個々によって強弱や濃淡はあっても、誰にでも同じように潜んでいる。人間が、社会生活を営むことができるのは、この欲望をだましだまし使うということを覚えたからである。規矩とは、己の内部の正義や倫理の名前ではなく、己の欲望に対して自らその使用を禁じるということに他ならない。
なぜ、それを禁じるのか。おそらくは、自分で自分をリスペクトしたいという、次元の異なる欲望があるからだろう。自分に対するリスペクトとは、自分が何を得たかということよりは、自分が何を断念できたかということの中に生まれる感情に近い。それは、断念によってしか獲得できない境地というものが確かに存在しているからである。
リスペクトとは、他者をコントロールできる権力だと勘違いしているうちは、どこまでいっても欲望の次元を繰り上げることはできない。つまり、おとなになれないということだ。

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10月 26th, 2012 | Tags:

ラジオの時代

平川克美

最近はテレビも見ないし、ラジオも聴かなくなった。テレビはお笑い芸人が仲間内でふざけ合っているような番組ばかりが多く、FMラジオでは妙な英語なまりの日本語を喋る帰国子女と付き合わなくてはならない。AMの帯番組ではなんだか人生相談ばかりやっているような気がする。もちろん、還暦を過ぎたわたしの偏見だが、偏見を覆してくれるような番組が少ないことも確かだろう。

NHKが『ラジオ深夜便』という番組を流しているのを知ったのは、泥酔の深夜タクシーの中であった。落ち着いた大人が、何の気負いもなく普通に話をしていた。「いいね、運転手さん、ボリューム上げてくれる?」とわたしは言った。これがラジオというものだ。

この「ボリューム上げて」という言葉は、いつもわたしに一つのエピソードを思い出させる。誰に聞いた話なのか、本当にあった話なのか、あるいはわたしが勝手につくりあげた捏造記憶なのか、じつはあまり確かではないのだが、わたしの中では確固としたエピソードとして登録されているのである。それは、坂本九の『上を向いて歩こう』という唄が、全米で流行するきっかけとなった逸話である。

発端はアメリカのラジオ地方局での一枚のレコードである。

狭い地方局のスタジオで、ディスクジョッキーが日本から届いたという一枚のレコードを流した。宵闇せまるハイウエイを家路に向かうビジネスマン、ビール片手の長距離輸送のトラック運転手、子供をあやしている母親がラジオから流れてくるこの曲を聴いていた。

それほど多くの人が聴いたわけではない。しかし、それを聴いた人は、心のどこかを激しく揺さぶられるような気持になった。長距離トラックの運転手は、思わずカーラジオのボリュームを上げた。

翌日このラジオ局にリクエストの電話がぽつりぽつりとかかりだす。誰も曲の名前を知らない。どうも日本の曲らしい。だから『スキヤキ』ととりあえず呼ばれた。電話をかけた人々には、それぞれのうかがい知れない人生がある。ラジオの電波がその見えない人生を結び合わせる。ロバート・アルトマンの映画のような話だ。

人生の中で、ひとは誰も出逢いたい人やことがらに出逢えるというものではない。出逢いたくないひとに出逢ったり、起こってほしくない出来事に遭遇することは多いけれど。ただ、時たま天から光が差し込んでくるように、不意の吉報が舞い降りてくる。いや、そんなことも滅多に起こらないことも、誰もが知っている。知ってはいるがどこかで、そんなことが起こるかもしれないと願ったりしているのかもしれない。

唐突な話で申し訳ないのだが、私は現在秋葉原にオフィスを構えている。かつて、ここはラジオのパーツを売る屋台が並ぶ、日本有数の電気街であった。街の近代化にともない、いまではだいぶ様相が変わってしまった。このラジオの街から、いくつかの新興宗教が生まれて消えたという話を聞いたことがある。小さな神々の教祖の多くはラジオ商であったという。かれらもまた、厳しく辛い日常の中で、ある日、明滅する真空管の彼方から、不意の吉報を聞いたのかもしれない。いや、たぶんそんなことはないだろう。ただ、小さなラジオの箱を見ていると、起こりえない何かが起こるかもしれないというような、ちょっとした胸騒ぎを覚えるのである。

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6月 21st, 2012 | Tags:

 昨年(2013年)長らく南久が原の町内会長をしていた父親を亡くした。享年86であった。遺品を整理していたら、懐かしい昭和三十年代の写真が出てきた。父親は終戦後、同郷の染物屋の娘を娶り、一念発起で東京に出てきた。大森第七中学校から坂を下りて踏み切りを渡った角地に二階家を借り、その一階を工場にした。

写真は、父親がプレス機械を数台ならべた町工場が、朝鮮動乱の特需を背景に一気に軌道に乗り始めたころのものである。当時は、同じブロックに四つの町工場が営業しており、朝早くから元気な機械音を響かせていた。今から思えば日本はまだまだ貧しい東アジアの発展途上国に過ぎなかったが、それでもそこには向日的な明るさがあった。その明るさを支えたものは、明日は必ず今日よりも良くなるだろうという実感であり、地縁的な共同体が育んだ連帯感だったのかもしれない。味噌も醤油も、貸し借りする貧乏長屋のような風情がまだ残っていた。作家の関川夏央はそれを「共和的な貧しさ」と評した。

写真に映し出された風景は、今とあまり変わらないようにも見える。高層のビルが立ち並ぶような地域ではないので、町の構造自体は変わらないからであろう。家の前の通りはまだ舗装されておらず、道の脇には幅一メートル、深さも同じぐらいのどぶ川が流れていた。

立ち並ぶ家並みの玄関前には、どぶ川を渡る橋がわたされていたわけである。

橋の下は子どもが頭を低くして通り抜けることのできるトンネルになっていた。

 子どもたちにとって、このどぶ川は格好の遊び場になった。子どもはいつでも、どこでもトンネルが大好きであり、カンテラを片手に暗がりに入り込むという冒険心には抗えない。家から下丸子方面に歩くと草木が繁茂する空き地があり、その裏手には防空壕があった。防空壕は、わたしたち悪がきが秘密を共有する特別の場所であった。

そのすぐ脇にもどぶ川が流れていた。

流れがあれば、そこには様々なものが流れ着く。

捨てられた玩具や、千切れた布切れや、磨り減った靴などが、あちこちに引っかかり、吹き流しのように水に揺れていた。台風が来て水かさが増えたときなどは、なんで、こんなものがというようなものが流れ着くこともあった。それはたとえば使い古した下着だったり、コンドームだったりした。

今から見れば不潔であり、あまり人目に晒す場所ではないだろうが、当時は、どぶ川があたりまえのように、家の前を流れて独特の臭いを放っていたのである。

「なんだ、あれは」

一緒に遊んでいた子が嬌声を上げた。

「見たことねぇな」

少し前に、青大将が流れていたという噂があったので、一瞬わたしは、蛇が流れてきたのかと思ったが、それは紛れもない一匹の魚であった。けれども、その魚は見たことのない不気味な形状をしており地獄からの使者のようにも思えた。

わたしは家に飛んで帰り、バケツを持って戻りその得たいの知れない怪物を捕獲し、庭の大だらいの中に移した。

我が家の裏手に住んでいたのは植木屋さんで、そのじいさんが魚の名前を教えてくれた。

たらいの中で悠然と泳ぐ黒い生き物は雷魚というものであった。

じいさんは、「雷魚ってのは、強えんだ」と言ってその頭に五寸釘を打ち込んだ。それでも、雷魚は頭に五寸釘を刺したまま平然と泳いでいた。

さらに驚いたのは、この植木屋のじいさんが、その日雷魚を捌いて角煮のようなものをこしらえてしまったことだ。

わたしは、到底食べる気にはなれなかったのだが、父親や工員は面白がって食べていたようである。

町も人も粗野で明るかった。

ところで、あの雷魚は、いったいどこからやってきたのだろうか。

そもそも、家の前を流れていたどぶ川は、どこに繋がっているのか。誰か知っていれば教えていただきたいのだが、いまのわたしには調べる便がないのである。

ただ、なんとなくあの雷魚が何かの使いだったように思えたことは今でも覚えている。それは、ひとつの時代の終わりを告げにやってきたようにも思えるのである。

不便で、不潔で、粗野だったが、野性味と人情があふれていた時代は、昭和三十九年の東京オリンピックを契機にして一変した。

家の前の道が舗装され、どぶ川が暗渠になったのもその頃で、町には蝿がいなくなった。

父親の介護で、三十年ぶりに実家に帰ると、築五十年の木造住宅にはネズミが徘徊していた。かれらは半世紀も前に暗渠になったあのどぶ川からやってくるらしかった。

どぶ川は見えなくなり、町の表面は清潔できれいになった。今の子どもたちはアスファルトの下に、あのどぶ川がいまも流れていることを知らない。

どぶ川に雷魚が流れ着いた日 はコメントを受け付けていません。
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