作家の立ち位置。
16日の読売新聞に村上春樹へのインタビュー記事が掲載された。
(俺はこのブログにときおりコメントをお寄せ下さるまろさんのブログ「漫望のなんでもかんでも」でそれを読んだのだが)大変示唆に富んだインタビューであった。
http://plaza.rakuten.co.jp/1492colon/diary/200906160001/
一読、『1Q84』にはオーウェルの小説と、地下鉄サリン事件の影が色濃く反映されていることが村上自身の言葉で語られていることが知れて大変興味深い。
G・オーウェルの未来小説『1984』を土台に、近い過去を小説にしたいと以前から思っていた。もう一つ、オウム真理教事件がある。僕は地下鉄サリン事件の被害者60人以上から話を聞いて『アンダーグラウンド』にまとめ、続いてオウムの信者8人に聞いた話を『約束された場所で』に書いた。その後もできる限り東京地裁、東京高裁へ裁判の傍聴に通った。事件への憤りは消えないが、地下鉄サリン事件で一番多い8人を殺し逃亡した、林泰男死刑囚のことをもっと多く知りたいと思った。彼はふとした成り行きでオウムに入って、洗脳を受け殺人を犯した。日本の量刑、遺族の怒りや悲しみを考えれば死刑は妥当なのだろうと思うが、基本的に僕は死刑制度に反対だし、判決が出た時は重苦しい気持ちだった。ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるかわからない死刑囚になっていた–そんな月の裏側に一人残されていたような恐怖を自分のことのように想像しながら、その状況の意味を何年も考え続けた。それがこの物語の出発点になった。(2009年6月16日 読売新聞)
小説家は何故書くのか。その理由の一端がこの村上春樹の言葉から窺える。誰もが、社会の不正義に対する憤りや、不条理な世の中に対する嘆き、弱者の怒りや悲しみを代弁するというかたちで文章を書く事ができる。あるいは、ひとつの事件や社会状況を分析したり、歴史の中に位置づけるといった試みをすることができる。しかし、そういった動機を文字におこしただけでは、そしてそれがどんなに精緻に構築されたとしても、それは論文にはなっても文学にならない。村上春樹はそう言っているように思える。
「月の裏側に一人のこされていたような恐怖」と、かれは言っている。そして、この恐怖の存在する場所まで降りていかなければ、かれの新しい物語もまた存在しない。小説家とはそのように想像し、そのように考える人種なのだ。
以前、三島由紀夫が自衛隊の市谷駐屯地でクーデターを起こそうと決起し、自死したとき、多くのひとびと(政治家、批評家、メディアのコメンテーター)が、三島の思想と当時の日本の状況に関して様々に論じていた。俺はそのとき、近所の図書館で受験勉強をしていたのであるが、そこに友人のひとりが三島自死の号外を持って事件を知らせてくれた。それは、俺が通っていた予備校(城北予備校)と狭い道を挟んだ対面の自衛隊駐屯地で起きた出来事であった。あの時の、自分の生きている世界の底が抜けてしまったような恐怖感はいまでも思い出すことができる。そして、翌日の新聞には識者の見解が掲載され、テレビではコメンテーターが様々にこの事件を解説していた。しかし、三島の死に関する多くの人の評論は俺を納得させたり、満足させたりすることはなかった。俺は、誰かがこの事件にもっと「適切な言葉」を与えるべきだと感じていたと思う。
この事件から一ヶ月ほど経過したところで、文芸誌が三島の死に対する文学者のコメントを掲載した。その中で、小林秀雄が「皆この事件を様々に解釈しようとしているが、誰も三島が居たところまで降りていこうとはしない」というようなことを書いていた。昔のことなので、小林秀雄が本当にこのようなものいいをしていたのかどうかは確かではないが、俺にはこの「降りていこうとはしない」という言葉が記憶の中に残り、なるほど文学者とはこのように考えるのだとはじめて納得できる言葉に出会った気がしたのである。「降りていく」とはどういうことか。
この度の読売新聞の村上春樹へのインタビューを読んで、俺はあの時の小林秀雄の言ったことを思い出した。そして、かれは作家の役割を次のように述べている。
作家の役割とは、原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと考えている。「物語」は残る。それがよい物語であり、しかるべき心の中に落ち着けば。例えば「壁と卵」の話をいくら感動的と言われても、そういう生(なま)のメッセージはいずれ消費され力は低下するだろう。しかし物語というのは丸ごと人の心に入る。即効性はないが時間に耐え、時と共に育つ可能性さえある。インターネットで「意見」があふれ返っている時代だからこそ、「物語」は余計に力を持たなくてはならない。テーゼやメッセージが、表現しづらい魂の部分をわかりやすく言語化してすぐに心に入り込むものならば、小説家は表現しづらいものの外周を言葉でしっかり固めて作品を作り、丸ごとを読む人に引き渡す。そんな違いがあるだろう。読んでいるうちに読者が、作品の中に小説家が言葉でくるみ込んでいる真実を発見してくれれば、こんなにうれしいことはない。大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う。(同)
「即効性はないが時間に耐え、時と共に育つ可能性」のあるものを紡ぎ出すことが作家に求められることだとかれは語っている。現在の職業的な作家のうち、誰がこのようなことを確信を持って言うことができるだろうかと思う。今日の、次々と新本が出ては消えてゆく出版文化の状況を見ても、あるいはドッグイヤーと呼ばれたビジネスの世界を見ても、日々変転する社会状況を見ても、かれのこのことばはほとんど反時代的といっても良い響きを持っている。
大衆迎合的でもなく、反体制的でもなく、反時代的であること。つまり、ひとりであること。それは特権的なポジションに違いないが、作家が作家である理由はこの特権的な立ち位置に立つということだ。もし、そうでなければ千年も昔に書かれた「物語」が現在もなお消費されつくされずに残りうるなどということが起こることはない。

そんな頭の中の妄念を賢しらにならべるより、旋盤工場でネジを一本、ちゃんと締めている職工のほうが
よほど社会や世界をちゃんと透視しているとわたしはおもうね。
頭の中の世界は頭の中でしか完結しない。「壁」なる観念も頭のなかの妄念に過ぎない。
しかし社会にはいつも飯を食う人、寝る人、排便する人、就職する人、恋愛する人たちがいる。
かれにとってそんな「括り」は掲示板上の妄語と同じく、何の意味も値打ちもない。
と、
そのことがまず村上も内田もわかった上での発言ならまだましなのだが、まるでなにかそれが現実を
説明できるかのように錯視しているところが滑稽であり、哀れでもあり、また、それらの状況まるごとが
まさしく現代の戯画なんだろうな。
どうせ小説を書くならそんなものでもちゃんと書いて見せろよ。個性のある人間一人ちゃんと描けずにさ
物語のロボットのように都合よく動かしたって、子どもならともかく大人が読める代物じゃない
とわたしはおもうね。
内田、というか丸山は面白いことを言う。
これこそが、村上春樹の言う「システム」の一つのカタチであると思う。
「システム」は、強い人も弱い人も、「偉い」人もそうでない人も、等しく包み込む。
なぜなら「システム」は社会(第三者間)の営みのことだから。
当事者利益のうちに必然的に第三者(という当事者)利益を織り込まざるを得ないのが社会を営むということであるから、それはすなわち、「無限」を取り込むことになる。それは、一意対応でないが故に操作不可能であり、また非特定であるから、素朴にこれに従うなら小磯のような態度になる。つまり、小磯にとっては、社会も自然も同じ環境であり、受け入れざるを得ないものであったのだろう。その弊害を自覚する者は、「責任」という、それが操作可能であるとする仮定(、フィクション、「物語」)を互いに約束する(という「システム」を導入しようと試みる)。それは、その「社会」(という営み)の解体を意味する。つまり、責任をとるとは、簡単に言うと、その関係を断ち切るということであり、したがってその結果、その「社会」から排除された個になるということである。要は、責任とは、排除に関するある約束事のことである。戦前には、そのような「システム」を、持っていなかったということでしょう。
内田先生は、村上に対しても同じように言えると、大したものですけどね。
(無限に関する考察なくして、村上の問題は解けないし、おそらく村上は解けない。)
なんてことをただの思いつきで。落書きすみません。
追記:もうしわけないが平川さんへお願いがある。
大塚英志『物語論で読む村上春樹と宮崎駿』を一読していただきたい。
内田樹さんのことばを友情から鵜呑みにするのではなく、社会批評家としての立場を尊ぶのなら、冷徹な批評家として振舞っていただきたい。どうかお願いします。
ヒラカワさんが「過度的な世界」をエントリーされたので、申し訳ないがあえて村上春樹の「小説」のもつ時代性について、執拗で申し訳ないがひとこと言及しておきたいと思います。
わたしはヒラカワさんの支離滅裂さに少しあきれている。一方では原理主義的な経済動向にノーといいつつ、他方ではそのような「原理主義」(構造だけ)によって成り立つ村上春樹の小説を支持している。
村上の新作『1Q84』は村上がいうようにオーウェルの「1984」をもじったものではない。両者を読み比べれば関係のないものであることがわかる。むしろ村上本人は無意識だっただろうが、これは驚くべきことを暗示している。1984年というのはジョセフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』が出版された年です。村上春樹の小説は処女作からはじまってすべてキャンベルが発見した「物語の母型」の構造を下敷きにして書かれています。つまり柄谷行人が吐き捨てたように村上の小説には「(物語の)構造」しかないわけです。
そのために文体は極度に無国籍化し作家の匂いを消しています。
キャンベルが発見したこの「物語の母型」は単純化すると次のような3段階にります。
「(1)「セパレーション」(分離・旅立ち)→(2)「イニシエーション」(通過儀礼)→(3)「リターン」(帰還)。村上春樹の全作品はこの単純なパターン、「行きて帰りし」物語に終着します。つまり非常に稚拙な物語構成をもっているわけです。ブッダもゼウスもプロメテウスもアイネイアスも、玄奘と孫悟空も桃太郎とイヌとキジとサルも、そしてモーセも大国主命も、みんなみんなこの通りの3段階をへて英雄伝説の主人公になっ」っている。(松岡正剛「千夜千冊」千の顔をもつ英雄)
しかしじつは、1990年以降のハリウッドではキャンベルの発見した物語の構造を下敷きに映画がつくられるようになりました。ジョージルーカスの「スターウォーズ」もコッポラの「地獄の黙示録」もこの物語の構造を踏襲しており、若いときから米国の文学や映画に没頭した村上春樹はそこから物語の構造に触れたわけです。
そして作家の個人的な体臭を消したとこではじめて文学は国際的な遠隔力を持つにいたるのです。それはつまり「構造だけしかない」から「世界のどこへでも届く」わけです。しかしそれはまた一方で、経済原理主義がはこびる年とも期を一にしています。ハリウッドから「カッコーの巣の上」や「ダンス・ウィズ・ウルブス」のような映画を作る人たちの体臭がにおう作品が消え「おれの物語」に代わって「みんなの物語」が派生してきました。
経済が労働者や町工場の社長個々人の声や汗や表情を捨象して「経済原理主義」つまり基本原理としての「金儲け物語」に回帰していったときと重なるわけです。
>小説家は何故書くのか。その理由の一端がこの村上春樹の言葉から窺える。誰もが、社会の不正義に対する憤りや、不条理な世の中に対する嘆き、弱者の怒りや悲しみを代弁するというかたちで文章を書く事ができる。あるいは、ひとつの事件や社会状況を分析したり、歴史の中に位置づけるといった試みをすることができる。しかし、そういった動機を文字におこしただけでは、そしてそれがどんなに精緻に構築されたとしても、それは論文にはなっても文学にならない。
そんなバカなことはないわけです。
小説はだれもが書けるし、しかも社会の不正や不条理対する嘆きや弱者の怒り悲しみがあるからこそ豊かなものです。物語り原理主義に還元されてしまったような小説の現場はいわば荒涼とした廃墟です。
わたしたちの小説は村上春樹のような「物語」の原型に還元されてもいけないのです。
たしかにそうすれば「構造」だけしかないわけですから、世界に届くかもしれない。だけど、それはほんとうはどんな個人の真実も含んではいない。
わたしたちはわたしたちの書く物語に匂いや声や表情を盛り込まなければいけないし、ほんとうはそのような「夾雑物」こそが小説の中身であるべきなんです。
村上は反物語を書きたいといっているとか。しかし、新作の『1Q84』もまったくこれまでの作品のパターンを踏襲しており、たったひとつの「行きて帰りし」物語つまりジョージルーカスの「スターウォーズ」をなぞってとめどなき反復を繰り返しをしているわけです。
ヒラカワさんが本心から経済原理主義を忌み、ファシズムを否定的にとらえてをり、時代の変換点に敏感ならば、まさしくファンタジー(構造)が1990年以後、文学や映画の現場を塗り潰したこの時代をもっと批判的に分析すべきではないでしょうか。
村上春樹の小説は、「文学」を読む行為を「演じたい」人のために書かれた、小説として「演じられたもの」といえばいいのだろうか。わかりやすくいえば、わたしがふつうに小説と呼ぶものは、収穫された果物などと同じで、たとえばリンゴなら、それを育てるのが小説家で、収穫されたリンゴを手にとって白い歯で齧るような行為が読書ということになる。
ところが生のリンゴを育てるのではなく、リンゴを味わうとこのような香りと歯ごたえがあるよと説明された絵を描くのが村上春樹であり、そのような香りと歯ごたえの「説明」を「わたしも了解したよ」「同じくそれをわかっている人間のひとりですよ」と答えるのが村上春樹の読者なのです。
つまりあくまでもバーチャルな世界において、相互演劇的に作家と読者を演じ分ける暗黙の関係世界を構築している。それが村上春樹の小説(厳密には小説舞台、小説セットとでもいうべきもの)です。そこには身体性が完全に欠落している。リアルな生の生への知覚のいっさいが欠如している。
これが一種の精神病態であることはいうまでもありません。
4!
↓↓↓
>愚直の人さま
僭越ながら、なかなか読ませる、また納得できる書評でした。
文章力のキレも鋭く、言葉が立ち上がってきて驚きました。
「違和感なく溶け込めけ、」
以外は(笑)。
こんなに読んでもらって、
村上春樹氏も(内田氏も)しあわせだなー。
そろそろ書店に再入荷してますかね、『1Q89』。
村上春樹が「風の歌を聴け」でデビューしたのは’79年だった。村上春樹と同年代だったわたしは、60年代後半から72年の「瓦解」に至る期間に折り合いをつけられず、表面はヘラヘラした会社員として振舞っていた。「風の歌を聴け」をリアルタイムで読んだ同世代は、感想を言葉にするとすぐに「嘘」になってしまうような感覚と、この小説の世界は間違いなく自分のものだという感覚を同時に抱いたのではなかったか。
以来、新刊がでると買う作家の一人になったが、「ノルウェイの森」辺りから何とも言えない違和感のようなものを感じるようにもなった。「ノルウェイの森」が出たのが’87年、世の中全体がバブル崩壊前の何とも嘘臭い「高揚感」の中にあって、さらに作り物の小説にまで付き合うのが面倒だったのだろうか。
‘05年の「東京奇譚集」では、久々に小説を読む喜びを味わい、その世界に違和感なく溶け込めけ、一皮むけた、敢えて言えば「大人になった」村上春樹に出会った感じがした。
今回の「1Q84」では、誰もが簡単には説明できない現代という、否応なしに存在させられている理不尽な「世界」に「物語」で拮抗することが可能なのだ、小説を書き続けるということは常に理不尽な存在・在り様である「世界」に「物語」で対抗することなのだ、という村上春樹の覚悟を改めて知らしめたのではないか。
「1Q84」はミステリを思わせるような出だしで、このところチャンドラーを訳していたのはこのためかなどと勘繰ったりしたが、やはり村上春樹の根本的な課題は「世界」の理不尽な在り方に対する「物語」による抵抗・対抗・救助なのだ。一見、未解決な結末には続編があるのではという意見もあるらしいが、理不尽な「世界」に対する「物語」による抵抗という観点で考えれば、誰もが納得できる「解決」などあり得ないのだという宣言とも思えるし、僅かな「救助」の可能性を示唆してもいるのではないだろうか。
「理不尽な世界」→「生きることのやるせなさ」という方向でみると、「グラン・トリノ」に通底するものも感じられるかな。どうでしょう、平川さん?
具体的な個別の作品にたいして、物語作家自身による解題はやめてほしい――。
(評論・思想・経済などは除く)
と感じるのは、おれだけっすかね。『カフカ』も同じでしたが、春樹氏には、
そういう傾向があるようです。喜びの表明かなとも思っていますが。
どうしても解題は、限定された時代、問題と関係づけられるので、
平川さんがおっしゃるような
「即効性はないが時間に耐え、時と共に育つ可能性」
に真逆に作用し、自分で風化を促進する行為と見えます。
男はだまって・・・。
ってのは、古い美学なんですかね(笑)。
メタ・メッセージのほうが風化は早いので、作品の読みを、物語作者が
限定するかも知れない試みは邪悪でしょう。
うっすらと権力の行使さえ感じます。
ちなみに『1Q84』がオーエルの『1984』と関係あるのは誰にもわかったはずで、
そのパロディーかなとも思いましたが、
とくにIQ「84」(猿なみ)と読めば、アーおれ用の物語か知れないと
奇妙な感激が走ったものです。まだ買えていませんけど。
エルサレムいらい、村上春樹氏は多弁になっていません?
こちらの多弁はさておくとして(苦)。
( ´,_ゝ`)プッ
なんとおっしゃられようと村上春樹の小説は幼稚でつまらない。それがすべてです。
小説の好きな所は、作者がどんな思いでそれを書き、また作品について何を述べようとも、読み手が好きに解釈できる所です。
雄弁な作家をみると、作者は作品だけ見えればいいのであって、申し訳ないけれど「黙っててくれない?説明なんていらないのよ」と理不尽にも作者に言いたくなってしまいます。
三島が「天人五衰」を書き上げ、市ヶ谷で自決した時、ただ彼は死に場所を探していたんだと自分勝手に考えていました。
しかし私としては珍しく謙虚に人の意見を受け入れ「IQ84」を読んでみようと書店に行ったら、どこの書店でも品切れでした。私は知らないくせに「嫌い」と決めつけて軽んじていたのかもしれません。
村上さんの本を読み始めたのはホンの最近です。『海辺のカフカ』からですが。以来、すっかりはまってしまい、刊行されている本はほぼすべて読み、『1Q84』も読みました。
文庫本を読んでいる時に、巻末に他人の書いた「解説」が一切ついていない事に気がつきました。
でも、彼は自分が翻訳した本には解説をつけたり、解説をつけようとして断られたりとかしていて面白い人だなと思っています。
自分だけしかしていない体験がモノを考えたり、書いたりするベースになっているという事は真にそのとおりであると思います。「世界の底が抜けてしまったような恐怖感」と平川さんは表現しておられますが、私の場合は、「針の筵に座らせられた」感じです。「頭から血が引く」と言いますが、ホントに、ザーッという音が聞こえるものですね。
すべて私の生き方を決めてくれました。
これは純粋に個の体験で、伝えることは難しい、しかし、村上さんはそれをやろうとしているなと思います。読者に届く言葉で。