Archive for 11月, 2008

仏教はほんとうに難しいのか?

はっとりしょういちさんからコメントをいただきました。大切なことなので恐縮ですが、転載させていただきます。

やはり、仏教とは難しいですね・・・はっとりしょういちさん

>言葉で伝えられないことを感じるよりも前に、言葉で伝えられていることを理解できずに困っております。

>なかなか仏弟子にはなれそうにありません・・・。>合掌。

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はっとりしょういちさん言葉はとても大切です。真言宗を立てた空海さんも、不立文字と言った道元さんも、言葉を尽くした膨大な著作を残しました。ただ、言葉だけでは伝えられないことがあるのも事実です。仏教を言葉に記されたお経を読むだけで理解しようとしても難しいでしょう。偉大なる教師であったお釈迦様でさえ悟りの内容を衆生に伝えるべきかどうか悩んだのですから。生活を正し(戒)、心を静める坐禅・瞑想をし(定)、お釈迦様の教え(慧)を学ぶ三学の実践をともなうものであることを忘れないでください。万事を尽くして天命を待つという感じです。お釈迦様の仏教は難しくありません。だからこそアジア全体に拡がったのです。哲学好きの仏弟子達がインド人も西域の人々も中国人も共謀して難しくした上に日本人が融通無碍の分からないものにしてしまった。仏教が難しいと思われることは、仏教者の怠慢であり堕落です。愚僧もその末席を行くものとして大いに反省しています。

南無仏 合掌 観学院称徳

 

仏さまは心の中に

有り難いことにまた大切なコメントを、ogawamakiさんからいただきました。
恐縮ですが転載させていただきます。

ogawamakiさん
>かく言う私は、「神様はみんなそれぞれの心の中にいる」と
>堅く信じている無宗教者でございますが……..m(_._)m
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おお、拙僧と同じですね。大乗仏教の素敵なところは、
一切衆生悉有仏性、全ての生きとし生けるものの心の中に仏さまとなる性質があると説いたことです。
さらには山川草木悉皆成仏、人はもちろん大自然の山や川も草も木の一本一本に至るまで、すべてそのままに成仏している、仏の現われであるというところにまで行き着きました。
生命の大切さ、エコロジーの大切さ、昔の人は分かっていたのですねえ。
生きとし生けるものが幸せでありますように

合掌 観学院称徳

 

困った仏弟子の疑問


大乗仏教は出家在家の別なく全ての衆生のために説かれたお釈迦様の教えを奉じている、ことになっています。みんな一緒に彼岸に渡ろう! だれでも悩み苦しみの輪廻を解脱して悟りの世界に行けるのだ! 人は誰でも成仏できる、という有り難い教えです。

拙僧も大乗仏教の流れの最終、金剛乗にある密教で受戒していますので、大乗の仏弟子であることは自覚しています。その愚僧に、仏教に興味を覚えて以来消えることのない、小さな、しかし根本的な疑問があるのです。お釈迦様の仏教と大乗仏教、そして我が国の仏教の現状に関する、今まであまり口にしていない、記していない疑問です。 

大乗仏教がどのように成立したのか、本当のところは分かりません。仏滅後100年が過ぎた頃、伝統を重んじる上座部と戒律の修正を訴える進歩派が対立した仏教の根本分裂により成立した大衆部系の出家集団と、お釈迦様の仏舎利を納めた仏塔(ストゥーパ)を崇拝した在家信徒集団との和合によって成立したという説が有力です。

大衆部は、その名が示す通り在家の信徒との関わりをより重視すること、お釈迦様の教えの原点に返り慈悲に基づく利他行と、それを体現する一切衆生救済を目指す菩薩を理想とするところに特徴がある大乗仏教の母胎となったと思われる出家集団です。菩薩のトップを切って弥勒菩薩が現れたのもこの頃のことです。それらが部派仏教時代に他派との論争を繰り返して西暦紀元前後頃に、北西インドの部派仏教内部の運動として発展し、新たな教義を確立していったことは明らかであり、大衆部=大乗仏教ではありません。

 

しかし、ここでインドにおける仏教と経典成立の歴史をちょっとでも学んだ者にはたちまち大きな疑問が生まれます。拙僧も30年以上も前の学生時代に教養課程で仏教学(大乗仏教と禅)と比較宗教学(キリスト教、イスラム、原始仏教)を学んだとき、疑問の芽が生じています。

お釈迦様以来の伝統を重んじる上座部系の仏教が、お釈迦様の話した言葉に近い一般民衆の言葉であったパーリ語によって南伝大蔵経を編纂し今に伝えて読誦しているのに対し、大衆のものであるはずの大乗経典が、ヴェーダ経典の聖なる神の言葉サンスクリット語で記されたのは何故か、何故記さねばならなかったのか?という疑問です。

サンスクリットはバラモンが神の言葉を独占し民衆と神の間に君臨するための言語であり、大衆がそのまま理解することは難しいものです。ちょうど中世のキリスト教カトリック教会が聖書を神父にしか理解できなくなっていたラテン語によって独占し、神と信徒との間に教会を君臨させたのと同じではないのか?ということです。

これはカトリックに対するプロテスタント革命に、上座部に対する大乗の仏教改革を比す考え方とは明らかに矛盾します。中世には既に一般に理解できなくなっていたラテン語による秘された聖書を、宗教改革によりドイツ語やフランス語など大衆の言語に翻訳して解放したプロテスタントと正反対のことを大乗仏教の経典制作者達がやっているからです。

大先輩に当たる優れた仏弟子達を批判するつもりは毛頭ありません。これは愚僧の持つ幼稚な疑問です。しかし、教えを聖なる言葉サンスクリットで残すことを進言したバラモン出身の弟子達に対し、お釈迦様が誰にでも分かる言葉で伝えられるべきだと明確に否定された主旨の言葉がパーリ語経典に残っていたと記憶しています。

そのお釈迦様のご意志に背いてまで、何故、大乗仏教の経典はヴェーダの神の言葉サンスクリットで記されなければならなかったのか? 滅後数百年を経てお釈迦様が神格化された結果なのか? そうならば何故南伝仏教の上座部経典は分かりやすいパーリ語のままで伝えられたのか? 内容についても、パーリ語仏典が人間仏陀であるお釈迦様の誰にでも分かりやすい対機説法の福音を伝えるに対し、大乗仏典はサンスクリットで表記され、時に荒唐無稽な神話的な物語の中に深遠な哲学的なメタファーを織り込んで、専門家の解釈を通じてしか理解できない難解な教理が盛り込まれている。三昧修行によって感得されたものと信じるとしても、これらはみな大乗の理想とは矛盾するのではないのか?

 

思想を物語に織り込むことには大賛成ですが、それをバラモンの独占する聖典語で記す意義は何なのか? 単に偉そうに有り難そうに思わすだけなのか? パーリ語仏典を奉ずる上座部系の部派を小乗仏教と蔑むための大乗仏典への権威付けのためなのか? ヒンズー教との対抗、あるいは取り込みを目論むためなのか? 仏弟子が教祖であるお釈迦様の直説を貶めるような、そんな不遜なことを本当に行なえるのか? お釈迦様の直弟子達を馬鹿にするようなことを本気で考えたのか? 初期の般若経典『大般若経 魔事品』にはお釈迦様の直説を記したパーリ仏典に信徒達が回帰するのを「そうなったら悪魔の仕業だ」と危惧しています。事実、後世のことですが、三蔵法師玄奘がインドを訪れた頃には既に大乗仏教は衰えており、上座部系の部派に寄り添うように存在していたと、師の旅の記録「大唐西域記」は伝えています。東南アジアでも当初普及していた大乗仏教がパーリ仏典を奉じる上座部仏教に駆逐されてしまい、中国の影響が特に強かったベトナムだけが大乗仏教圏として残されるのみなのです。お釈迦様の仏教を小乗仏教と蔑み、小乗から大乗への流れを必然としてきた我が国仏教の立場からこの事実をどう考えればいいのでしょうか? 愚僧の脳味噌は混乱するばかりです。

 

もっとも大乗仏教、密教の歴史の中でも、サンスクリット経典はまず西域の諸言語に翻訳され、中国語に翻訳されました。インド仏教最後の密教もチベット語に翻訳されてその地に広まり、今も生きた宗教として息づいています。それぞれの民族が仏教を受容するときそれぞれの言語で仏教を理解しようとしていたことは明らかです。

我が国においても飛鳥・奈良時代以来エリート達は漢文を自在に読みこなしましたし、江戸時代になると町人や農民でも漢文を理解できた人は珍しくありませんでした。残念ながら空海さんなどの例外を除けばサンスクリット原典から仏教を理解しようとした人は少なく、強大な中国文化の影響によって変容した漢訳仏教ではありましたが、多くの人々が仏教を理解しようと努めていたことは確かです。また和讃や節談説教という形で大衆にも分かりやすく仏教が説かれ続けていました。

対して現代の日本仏教では、かつてお釈迦様がバラモンの行なう儀式を無益なものと批判した、そのバラモンと同じように世間の人々にとっては意味も分からない儀式を繰り返しているだけではないのか? 漢訳のお経を意味も分からず有り難く思えと強制しているかのように思えます。

もちろん現代では、サンスクリット原典からの日本語訳仏典も容易に読むことができます。多くの人がそれぞれの立場で仏典やそこに秘められた教義の解釈をして出版しています。しかしながら残念なことに、伝統的な宗派の仏教の僧侶がこれらを仏教の布教や、悩み苦しみ救いを求める人々の救済のために活用しようと実践しているとは思われません。

 

もちろん仏教を学んでいる拙僧は、我が国に伝統的な仏教のやり方を無意味だとは思っていません。大乗仏教の理想は現代でもその輝きを失ってはいません。むしろ心を病ませる社会においてますますその有効性を増しています。慰められている人々も大勢いるのです。しかし大乗仏教をよく知らない一般の人々からみれば、それは仏教の形骸化そのものと思われてもしようがないのではないのか?ということです。

これは鎌倉時代以来の祖師仏教の宗学に偏った仏弟子達のお釈迦様を蔑ろにした結果ではないのか? とにかく現代日本の仏教が人の心に巣くう闇に光明を照らし生きる力を生じさせるという、お釈迦様の教えを活かそうとしていないのではないか? 心の闇が産み出す残忍非道な犯罪のニュースに触れる度に思い出すこの疑問、愚僧の心にかかる一筋の雲が晴れることはありません。

無意味なことは考えても無駄じゃ!うじゃうじゃ考えずにただ一心に菩薩道を歩め!

と、叱られそう、そうその通りには違いないのですが、生来の潔くない性格は死ぬまで直りそうもありません。真摯に菩薩道を歩まれている多くの僧侶の方々には誠に申し訳ない限りではありますが、迷える愚かな不良仏弟子の戯言とお慈悲をもってお許しください。適切なアドバイスをいただければ幸いです。

南無仏 合掌九拝 観学院称徳

 

夕陽の中央フリーウェイ


行く手には茜色の空

ときどき影富士が見える

夜空が後ろから滲みてくる

夕陽に向かって走る中央フリーウェイ

光りが強さを増している

博琳乎的

 

あたたかいご声援をいただいたと思って

拙僧の恥ずかしいたわごと「困った仏弟子の疑問(11/29)」に、talotさんがとて有り難いコメントをくださいました。拙僧は一気に心があたたかくなり、うれしくてどうしても皆さんにも伝えたくなりました。恐縮ながら転載させていただきます。

talotさんからのコメント
>自分の中で、生きることに切実に求めるものがあったとき、最後によりどころになったのは、私の場合、人生で大きな関わりのあったキリスト教ではなく、また彷徨える間おおきなお世話になった神道でもなく、つまり神様の世界だけではなく、仏教の、菩提寺の浄土宗でもなく、密教の真言宗の世界でした。それは縁としかいいようのないものです。

>それは、既存のシステムという程狭い意味ではなく、同行二人とでもいう切実な感覚です。唯物的世界観の中で育まれて、捕らわれていた自分が、毎朝近くの真言宗の水掛観音に手を合わせ、仏画の千手観音にご挨拶する日々を送っています。

>言葉はあくまでも言葉であり、言葉では伝えられないものがあるということを、仏教がたどり着いた密教が体現していると思います。観学院称徳さまに、このような仏弟子のひとりがいて、お釈迦様のひらかれた世界につながっているものがいることをお伝えして、仏様に救われ、こころの平安を得ることのできた少なくとも私がいることを告白します。

>すべては縁としかいえないと思うのです。 

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talotさん、有り難う! 感謝です!

確かに現代人は多かれ少なかれ産業革命以来続いてきた唯物的世界観の中で育まれ捕らわれています。最近の10年はもっと進んで唯金的世界観=金融資本主義というグローバルスタンダードに席巻されていたのです。幸か不幸か米国のサブプライム問題に端を発する今年後半の世界的な金融崩壊は、世界恐慌以来の未曾有の出来事ではありますが、人が心を取り戻すのにいい機会を与えてくれていると思います。心の中の疎外感が肥大化し心を無くして、人とは思えない犯罪をこともなげに犯す人の存在とそれが多発しているという事実が、心の時代の到来を反面教師として伝えています。心の時代は、平安静寂の世界ではありません。お釈迦様や祖師達が生きた時代と同様に、殺伐とした無法の時代、汚濁悪世です。だからこそ、心が大切に思えるのです。心をコントロールして幸福を求め、生命の輝きを尊ぶことができるのです。拙僧もまたご縁を得て密教と出逢いました。「心の時代に衆生を導き、生きる力を、生命の輝きを実感せしめよ」というお釈迦様と空海さんからの声を聞いたような気がしました。しかし、何の役にも立てない自分の不甲斐なさに申し訳ない気持ちでいっぱいです。寿命尽きるまでには一点の光りを灯したい、煩悩愚息の拙僧の願いです。

迷える衆生の心が仏の光明に照らされますように

南無仏 合掌 観学院称徳

 

浅草寺雷門~宗教の壁を超えて

秋も深まった11月の日曜日。浅草寺雷門は多くの善男善女で溢れていました。老若男女も、観光客と思われる外国人も大勢います。キリスト教徒の西洋人、ヒンズー教のインド人、イスラムのアラブ系やイラン系の人々、仏教・道教・キリスト教・イスラムなど多様な宗教が共存している中国人や韓国人、東南アジアの人々など、みんな笑顔で観音様の前に集い、香炉の煙を浴びて、ためらいもなく合掌していきます。世界中で血で血を洗う宗教間紛争が起きていることなど、とても信じられない美しい風景です。

百年に一度といわれる大不況が世界を襲うなかのつかの間の平和なのでしょうか?それともどのような時代であろうと、悩み苦しむ人々を必ず救おうという観音様の力強い無言の波動の前に、人種民族宗教を問わず人々が思わず手を合わせてしまうのでしょうか?

神も仏も人知を超えた存在であることは確かです。特に民族を超えて普及している世界宗教には、その根本において人類に共通の普遍的な真理を説いているところがあります。違いを言いたてるのではなく、共通する部分を大切にすることで、宗教の壁は超えられる、少なくとも宗教を理由とした殺し合いは無くせるのではないかと考えるのは、多神論・汎神論的思想が根付いている東洋人の夢、理想論でしかないのでしょうか?

とても難しいことであるとは思いますが、人種・民族・宗教を超えて観音様の前に集い、なんのためらいもなく手を合わせている人々の心の中に、希望の光を見たような気がします。お参りを終えた人々がみんな笑顔であったことが、その証明であると拙僧は思います。

人種・民族・宗教の違いを超えて世界中の人々が幸せでありますように 

生きとし生けるものが幸せでありますように

南無聖観音菩薩

合掌 観学院称徳

 

浅草寺仲見世~東京散歩

 

賑わいや雷門のみな笑顔

仲見世を埋める人波秋の空

浅草寺聖観音に功徳あり

惰咲亭

 

カモメは鴎

ある日カモメに遇いました

築地河岸 群れ飛ぶカモメに逢いました

蒼空に一羽のカモメが飛び上がり

目前にカモメ来たりてご挨拶

 

次々にカモメ来たりてご挨拶

大集合! 七羽の鴎、都鳥

なかには目つき人相?悪いのもおりますが

名残り惜し 出逢いは別れのカモメさん

 

天高く そしてカモメはねぐらに帰る

ふり向けば勝鬨橋から夕陽を望む

ああ不思議 夢かうつつか鴎の日

博琳乎的

 

秋の夜長の東京タワ~東京散歩


木枯らしの吹き抜ける街ほっとさせ

澄み渡る秋の夜長や東京タワー

秋の宵 輝きまして東京タワー

惰咲亭

 

立川談笑初見参vs春風亭百栄と異色派対決

18回目を迎えるオリンパスシンクる寄席スペシャルはてえと、初お目見えの立川談笑師匠VSラジオデイズでもお馴染み春風亭百栄(栄助改め)の異色派対決? 西新宿・ハーモニックホールは満員のディープな落語ファンで熱気ムンムン。開口一番は春風亭ぽっぽさん、ネタは「子ほめ」。達者な語り口がまたかわゆ~いのです。

さて先鋒は、百栄師匠。腰の引けた気の弱そうな強盗がコンビニに押し入りますが、その顛末や如何に? 演題はそのまんま「コンビニ強盗」。何気ない日常空間に有り得ない展開が師匠の本領発揮です。続く談笑師匠。古典「片棒」と思いきや抱腹絶倒談笑流新作「片棒・改め」で一気にハーモニックホール満員の客を虜に。ドケチの赤螺屋もこんな倅たちでは絶対に死に切れまへん。底抜けに馬鹿馬鹿しく面白い片棒でした。

仲入り後も談笑師匠で季節もの「時そば」。これも図抜けた談笑流、古典の定番もおちおち聴いてはいられない爆笑ネタに大変身!ほんとに参った、恐るべきパワーの落語でした。 トリはもち百栄師匠でネタは古典「はてなの茶碗」。基本に忠実に演じながらも師匠の持ち味が存分に活かされてます。茶金さんのへんてこな京都弁もご愛敬、器用でえぐ~い師匠の行く末が楽しみではあります。いや~古典も新作も偽古典も談笑・百栄両師匠は異色派落語界の双璧! ディープなファンには止められません。

                               お気楽亭落語好