8
3 月
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うーん、だいぶごぶさたをしておりました。
昨年来の構造改革がまだ終了せず、なかなかこちらへ手が回りませんが、身体の方は持ちこたえたおりまして、風邪のひとつもひいていません。
2月末は寒風吹きすさぶ美濃の町へ、白船社中のくにさん、きみさんと出かけてきました。「川泉」の鰻丼に舌を打ち、「目の字」旧市街(うだつのあるまち)と長良川河畔の散策を(震えながら)楽しみました。遊びではありません、仕込みです。
先々週は、時間を盗んで地下鉄に2駅乗り、新装成った根津美術館へ立ち寄りました。
隈研吾さんの新展示棟は心地よい「地味さび」ですね。この歳になるとあれぐらいがちょうどいい。一階に常設展示されている仏像群が素晴らしく、特に3メートル近い白大理石の如来が愛らしい。
企画展「陶磁器ふたつの愉楽」をありがたく拝観してから、氷雨をビニール傘に受けつつ庭を歩きました。そこかしこに、石仏・石塔・石灯籠などが配されていて楽しい。それにしても、前に来たことがあるのにさっぱり記憶が蘇りません。
今日は、また冷たい雨の中、思い切って、上野へ長谷川等伯を見に出かけました。
館内の人ごみに思わず腰が引けたものの、年代を追って展示された作品を見るうちに夢中になりました。確かに、この絵描きには「最高峰」という言葉が似合います。
私のような素人が言うのもなんですが、等伯作品から一貫して伝わってくるのは、強靭な知の配置です。絢爛豪華な障壁画からも、竹林の七賢人からも、有名な松林図からも、知がつーんと響いてくる。恐らく、堺商人の財力と桃山時代の豪気と利休の戦略などが混然一体となって、類いまれな知的緊張が空間を震わせているのです。
この展覧会の規模を再現するのはしばらく難しいでしょう。
東京近郊の方はぜひ、3月22日までに、東博へ赴かれることをお勧めいたします。
3
1 月
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2009年が行ってしまった。
シビアな1年だったが、悪いことばかりでもなかった。
ただし、一生の記憶に残るような事件はなかったから、数年たてばオトトシやサキオトトシと区別がつかなくなってしまうだろう。これは少し(かなり)悲しいことである。50代の半ばを過ぎると多くのことに既視感がある。いつかどこかで見たような気がしてしまう。えらそうに聞こえるかもしれないが、びっくりするようなことはこの先の人生にもうあまりないのではないかと感じてしまう。
これはいかんなあ。
だからこそ、我々は新しいテーマや領域に踏み込むべきなのである。少々無理があっても、恥をかいたとしてもやってみるべきなである。そうしなければ我々は(私は)退屈しながら底なしの自堕落にはまり込んでいってしまう。
09年の釣り納めは野島堤防を選んだ。
型の良いアイナメが上がっていると村本海事のWebに書いてあったからだ。
北東風が吹きつける中、時々しぶきを浴びながら、半日ブラクリの仕掛けを振り込み続けたが、魚族からの音沙汰はなかった。
10年の釣り始めは西湘の江ノ浦・八貫山下へ。
陽が落ちてから大石の間で37センチと33センチが食った。
3号ハリスでゴリ巻きをやるのであんまり趣はないが、このサイズなら満足である。
帰りに小田原マリンで氷を買いがてら奥さんに「37センチでした」と言ったら、「ちゃんと測ったの?」と厳しく問われた。
もちろん! メジャーで尾っぽの先端から出っ歯の縁まで目一杯の採寸をしています。
2010年がやってきた。
大晦日からチベット密教と空海の本を読んでいる。
面白い。
「梵我一如」をめぐる闘いを(今さらだが)垣間見た。
1970年から40年。1980年から30年。1990年から20年。そして2000年から10年。
いずれも何かが起きたその翌年である。たぶん倦怠がある。ちょっとした失敗もある。だから、弾が当たらないように、慎重な匍匐前進でじりじりやんなくてはいけない。
とにかく物忘れをセルフヘルプしなくっちゃ。
皆様、本年もよろしくお願いいたします。
14
12 月
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全都動員で結集したのは9人。同期が7人、ひとつ上の先輩が2人。
数名の女子にも声をかけたが、招請に応じたのは男子だけだった。
上井草の白木屋で40周年を祝って乾杯。
10年後の50周年では、全員が揃わないと思い、決行した次第である。
Nさん、Tさんはめっぽう元気だった。
ここには書けないが、我々の知らない話がずいぶんあった。
学年が1つ違うと見えていたものがずいぶん違うので驚いた。
O君は当日の新聞記事をデータベースから抜き出して持参。
僕は「封鎖宣言」と題されたビラを執筆者のNさんに返還した。
ひとしきり飲んで店を出た。
僕は校長先生のE君と高校を見にいった。
すごく立派な新校舎が出来上がっていた。
どうやら、このように我々は生き延びた。
我らが母校(なのである)も健在である。
月日は流れたが、69年12月9日はまだ「ここ」にあった。
26
11 月
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11月の三連休は、伊豆七島の最南端、八丈島へ行った。
初めての島である。
だいぶ前からぜひ行きたいと思っていたが、踏ん切りがつかなかった。
例によってT君を口説き落とし、11月20日、船上の人となった。
底土港に着岸して、今回の宿、ビーチタイムの女将にお迎えをいただいた。
ビーチタイムは、メジナ釣りの名人、故・百川武氏が19年前に開かれた由緒正しい宿である。多くの釣り人がここを拠点に八丈島の釣りを楽しんできた。
初日は、まあ肩慣らしという感じで、クルマを島の南東、藍ヶ江港へ走らせた。
ここは、昔からカンパチ、ヒラマサなど超大型の青物が釣れることで有名な場所である。
我々も、ひょっとしたらのスケベ心で竿を出した。
まずは泳がせ釣りのエサ、ムロアジを釣らねばならないが、これがなかなか手強い。
こらえ性のないおっさん二人はすぐに諦めて、カゴ釣りに転向。
オヤビッチャ、イズスミ、そしてたまに「今頃?」のムロアジ。
しかし、本来ならぜひ釣ってみたいシマアジなんかはやってこなかった。
宿へ帰って風呂を浴び、夕餉の席に着くと、同宿の釣り人が二人いた。
お一人は、見るからに老練な石物師。
もう一人は、ルアーでカンパチを釣ろうという若者。
当日、「一の根」に乗り合わせたお二人としばしの釣り談義を楽しんだ。
翌日は、待望の八丈小島へ向かった。
八重根港から出る渡船は優宝丸。
我々は件の底物師、高野さんと一緒に「小地根」に乗った。
狙いは50センチオーバーの尾長メジナ(あわよくば良型のシマアジも)。
で、第一投、まっさきに食ってきたのは小型のイズスミ。
第二投もイズスミ。第三投もイズスミ。以下同じ。
朝7時から上がりの14時まで、ほぼイズスミの入れ食い。
もちろん、全部リリース。
そして、10時頃から北西風が吹き始め、
どんどん強くなり、横なぐりの強風に竿がへし曲げられる。
それでも諦めず、竿を持つ手にマメを作りながらイズスミと格闘した。
初の八丈島は、つまり敗北に終わった。
でも、島を訪れるとなにか深いものが胸に残る。
八丈島も例外ではなかった。
鳥も通わぬ島なのに、気が通う不思議な回路があった。
25
10 月
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立川談笑さんの独演会で、落語作家の本田久作さんに、「タバコ、やめたんですって?」と声をかけられた。あまり大声で触れまわっていないので、なんで本田さんが知っているのか不思議がったら、ラジオデイズの霜越君から聞いたらしい。
「霜越さん、悲しそうに言ってましたよ」と本田さん。
シモさんは、ケムリ仲間の脱落に悲哀のごときものを感じたのだろうか。
あまり正確ではないが、2003年の春ぐらいから2006年の秋頃までが、「この前の」禁煙の期間である。この3年ほど、あれこれの事情から喫煙を再開していた。
16歳でタバコの味を覚えてから、十数回目の禁煙であり、喫煙の再開であった。
だから、「もう二度と」みたいなことは言わない。
また、何かのきっかけがあれば吸い始めるだろうし、それはそれでケセラセラ。
最初に吸ったのはハイライト。
高校の仲間で一時流行ったのがデラックスハイライト(通称デラハイ)。
予備校に通いながら、いきがって吸っていたのがポールモール。
大学時代はハイライトに戻ったような記憶がある。
サラリーマン時代の前半がよく思い出せない。
1990年代から後はすっとケント。ケントマイルドから6ミリ、3ミリへと後退した。
いまさらだが、タバコはやっぱり愉しい。
他にはない種類の遊具である。
小林秀雄風に言えば、青白くのっぺらぼうな時間に句読点を打つツールなのである。
それでも、何年かに一度、吸わなくても生きていけそうな気がすることがある。
その時、まあ、しばらく休もうかと思えれば、生涯十何回目かの禁煙が始まるのだ。
正直に言えば、今回のコンセプトは「禁煙」ではなく、「偶煙」である。
「偶(たま)には」吸う(吸わない)かもしれないとか、「偶々(たまたま)」タバコがあった(なかった)からとか、そんな感じだ。
だから、僕の周りに紫の煙が漂っていても、「あ!」みたいな顔をしないでほしい。
17
10 月
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マスクはインフル対策
中学校はいわゆる「越境」というやつで、西武池袋線のひばりが丘から江古田まで電車通学をしていた。3年間通ったのは、練馬区立旭丘中学、通称「旭中」である。なぜ、旭中だったのかよくわからない。当時の勢いで言えば、開進第三中学、通称「開三」あたりが急上昇中であったはずなのだが、なぜか両親は「旭中」を選んだ。今度、その理由を聞いておかねばなるまい。
旭中の三年間、担任でお世話になったのが川合桂子先生である。たいへん熱心で力のある国語の先生で、私は読み書きの基礎をこの方に教えていただいた。多少は贔屓にしていただいたようで、3年間、私は常に先生の暖かい眼差しを感じていた。
ずーっと不義理を続けていたのだが、同期の薫さんから連絡をもらって、先生が足の故障で入院されたことを知り、一緒にお見舞いに行くことになった次第である。
練馬春日町の施設でリハビリ中の先生は、想像を遥かに超えてお元気だった。
86歳とのことだが、その滑舌の良さと記憶力にびっくりした。
僕は正真正銘40年ぶりの再会だったが、先生は「ああら、キクチ君、久しぶりね」かなんかおっしゃって、当時の様子をさらさらと思い出される。明瞭闊達。クルマ椅子をご利用になってはいるものの、わが師は僕よりよほどエネルギーに溢れていた。
先生は日本語と日本文学の勉強に半生を捧げてこられた方である。
長らく松尾芭蕉に惹かれて、みずから研究を続け、碩学の俳諧研究者、尾形仂(つとむ)さんに師事されたそうである。定年退職後は地域の社会人教室で「奥の細道」などのレクチャーをされていた。また、これは初耳であったが、女優の山本安英さんと杉村春子さんに久しく語りを学んだとおっしゃっていた。ますます健在な明晰で柔らかなお話ぶりは、天性の資質に加えて、たくまざる修練の賜物でもあったのだ。
中学の恩師に不義理を続けていたのは、実はその頃の自分があまり好きではなかったからだ。中学時代の3年間は、正真正銘のガリ勉で、成績は(ほんとに)トップクラス。でも自我への目覚めのかなり手前にあって、まったくのお子様であった。模範生としてリスペクトされていた向きもないわけではないが、たぶん同級生には疎んじられていたに違いない。要するに、あんまりつきあいたくない「ヤな奴」だったと思う。
下手をすると、あの精神のかたちのまま、十代後半を迎えてしまう危険性も十分にあった。それが、高校生になって、どうやら、人並みにズッコケて、やっと自分に出会えた。それから後の自分の方が、僕には許せるのだ。
でも、まあ、お元気な川合先生にお目にかかれてよかった。この歳になれば、もう、好きな自分も嫌いな自分もどうでもいい。それはしょせんたいしたことではない。
中学時代は、第一次アイビーブームの全盛期で、ガリ勉少年もVANやJUNに夢中だった。若者文化はようやく『平凡パンチ』にさしかかった頃だ。数年後に日大闘争の最激戦区になった芸術学部は、我が中学のほとんど隣にあったが、ポン芸の学生さんたちもクルーカットにクルーネックのセーターで、街のアイビーリーガースをやっていた。あれもまた懐かしい風景である。
11
10 月
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横山涼一君の通夜と告別式を終えたら、胸の中にからっぽの器が残っていた。
昨日は、それを持て余したまま、西湘へ向かった。運転しながら、気がつくと横山の顔と葬儀で会った皆の顔が浮かんできて止まらない。
小田原マリンでエサを買って、ご主人に改めて八貫山下のポイントを教えてもらう。
駐車場からゴロタ浜を歩いて約10分。
通称「ハシゴ下」のやや西側に釣り座を定め、支度をしながら夕マズメを待つ。
最初に横山と口をきいたのはいつだったのだろう。
卓球部仲間の奈倉君を介して知り合ったのは間違いないが、最初のコンタクトシーンは記憶の彼方へ消えてしまっている。
1969年の秋から冬にかけて、僕の中では疾風怒濤の「流動化」が起きていて、それまでとはまったく違う体験に遭遇しながら、同時に新しい「つきあい」がいくつも始まっていた。彼にもそういうふうにして出会った。
横山は、最初からミュージシャンだったし、最後までミュージシャンだった。
高校ではDay’s Climaxというフォークバンドを結成し、法政大学ではジャズ研に所属し、卒業後はプロのジャズマンとして様々な演奏家と組んで活動した。最後の世良譲トリオのメンバーであり、ジャズ以外にもハイファイセットや小野リサと共演した。一貫してベースを弾いていた。
ただし、僕は彼の音楽活動をそれほど詳しく知らないし、その苦労や工夫について多くのことを聞いたこともない。飲み会で会えば、他愛ないおしゃべりをして酔っ払って、それでおしまい。そういう関係で良かったし、それがまだずっと続くと思っていた。お互いにもう少し歳を取れば、もっと別の対話が出来たかもしれないが、そんな「たら・れば」を今さら言っても仕方ない。
2001年に30年振りの同窓会で、Day’s Climax再結成の旗を振ってくれたのも彼だった。
そのコンサートの最後、「遠い世界に」の大合唱になったとき、ステージの後ろにいた(気の弱い)僕に向かって、彼がウッドベースを弾きながら声をかけてくれた。
「おい、菊地、前へ出て歌えよ!」
こういうのが僕の触れた「横山流」である。たぶん彼は見かけよりずっと苦労人だったので、他者のためらいやとまどいを察知する独特の鋭敏さを持っていた。それが、彼の、どこか透明感のあるTendernessを作り出していたのではないかと今考えている。
日の暮れかかる八貫山下では、沈み根の回りで足の裏サイズがヒット、その15分後に同じポイントで3Bのデカウキが消しこまれてガツン! 強引に巻き上げてタモで掬ったのが34センチ。今年の春以来、3回目の「ゴロタメジナ」でようやく結果が出た。
帰りの西湘バイパスで、久しぶりにDay’s Climaxの最初で最後のアルバム「BREAKFAST」を聴いた。1970年5月3日に都立井草高校の音楽室で録音されたものだ。演奏しているのは、須藤竜彦、長谷川弘、山本健善、そして横山涼一である。
収録曲は、「天使のハンマー」「イムジン河のほとりで」「落葉の季節」「まぼろしの翼と共に」「ジェット・プレーン」「日本の旅」(以上A面)、「何も言えずに」「遥かなるアラモ」「白いユリ」「朝の雨」「七つの水仙」「夢のカリフォルニア」「今日も夢みる」(以上B面)。
8
10 月
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『ラジオの街で逢いましょう』のゲストに、生物学者の福岡伸一先生とプロアングラーの児島玲子さんをお迎えした。
福岡先生は、『生物と無生物の間』で広く知られるようになった。学識の深さはもちろんだが、読み手を引き込む独特な物語作法で、分子生物学の世界をとても身近な場所へ引き寄せてくださった。ご本は以前から拝読していたが、夏に六本木のd-laboで開催された講演会にうかがって、もの静かな中に勁い意志を感じさせるお話振りに感じ入り、その場で出演をお願いした次第。
玲子さんは、TXの「釣りロマンを求めて」でおなじみの女性釣り師。少し前に「情熱大陸」にも出演されて、釣りという仕事に対するきわめて真摯な考え方を話しておられたのが印象的だった。あ、この人はもう、サカナを釣るタレントさんではないな、立派に自立したプロフェッショナル・アングラーなんだな、と思った。
ともかく彼女は釣る。番組の中で、視聴者の期待を裏切ることなく、きっちり釣ってみせる。その「引き」の強さは、やっぱりプロならでは、である。
そして、たいそう美しい方である。
はじめて、お目にかかって、思っていたより大きいのに気づいた。身長は167センチだという。奄美の海でどでかいGT(Giant Trevally、ロウニンアジ)を抱えている彼女を見て、なんとなく小柄な女性を予想していたが、そうではなかった。つまり、あのGTがほんとうに、どでかいのだ!
嫌われるかなと思ったが、こんなことをしゃべった。
「50歳をすぎた玲子さんが釣りをしているシーンが見たいですね」
彼女は笑って、
「釣りをずっと仕事にするかどうかは分かりません。でも、釣りは一生続けていくでしょうね。結婚して、子供を生んで、その子に釣りを教えてみたいと思いますよ」
魚釣りをする母。これも、すごく似合うと思う。
3
10 月
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鎌倉十二所の「酔鯨館」で石井信平さんを追悼する会が催された。
あいにくの雨模様だったが、100名を超す参加者がお集まりになった。
会は、奥様の敦子さんのご挨拶に始まり、信平さんの詩「酔鯨館に寄せて」の朗読、ご友人のチェロ演奏、さらに食事と歓談を挟んで、母校同志社大学グリークラブの皆さんの歌へ続いた。多くの方々のスピーチがあり、帰り際には追悼文集が手渡された。3時間に及び会の全編に信平さんの美意識が貫かれていたが、それは素朴で暖かかいものだった。
実を言うと、昨夜、夢に信平さんが現れた。
おかしな夢で、数人で山に登っているのだが、ふと気がつくと信平さんがいなくなっている。どうしたんだろうと皆で言っているうちに、2日ぐらいたってから、何事もなかったように、当の人が向こうの山からひょこひょこと歩いて帰ってきた。
あれ、どうしたんですか? どこへ行っていたんですか?
そう聞いても黙って答えてくれない。そうこうしていると、朝が来て目が醒めた。
確かにそんな人だった気もする。
どこにいるのか分からないところがあった。身の回りのことにほとんど関心のないような気配もあった。それでいて、こちらが忘れていた、ささやかな言葉のやりとりを覚えていたりした。ああいう不思議な人に会うことは、たぶん、もうないだろう。
帰りは、お越しになっていた南伸坊さんをクルマで大船へお送りした。
南さんは、信平さんとは筑摩書房の雑誌『終末から』で一緒に仕事をされた仲である。
クルマの中で、お互いが知らない信平情報を交換し合って、しばし、逝った人を懐かしんだ。
朝比奈の峠で、雨はほぼ上がっていた。
24
9 月
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三度目の三宅島。
最初は2006年5月で惨敗。二回目は2007年11月でイナダ祭。
どうも良型のメジナが釣れなかった。
今回もやや時期が早いので期待していなかった。
ま、青物が釣れればいいか、
ひょっとしたら交通事故みたいに尾長と遭遇するかも、
という程度のごくゆるい取り組みであった。
午前5時に錆ヶ浜港で下船して、
おなじみ「ホテル海楽」で軽自動車をレンタル。
エサのオキアミを積み、島の南端、新鼻(にっぱな)へ向かう。
三宅の超一級の地磯である。
駐車場にはまだクルマ1台。
ようし、これならと駆け足で赤い溶岩砂を踏んで磯場へ下りる。
先端部は濡れているが波はかぶっていない。
なんとかやれそうだ。
今回は台風を絶妙のタイミングでやり過ごしたのである。
それにしても圧倒的な質量の海である。
波はあたかも海底から盛り上がってくるようだし、
潮流は太くて、強く、ハナレとの間を川のように走り抜けていく。
先端部右側に立って、阿古方面へ奔る潮に二段ウキを潜らせていくと、
ビシッとラインが張ったと思うやスプールからバリバリッと引き出された。
これだ!
4番まで気持ちよく曲がった竿を片目で見ながら、
ヒューンという糸鳴りを聞くと身体の中で何かが爆発し、
思わず大声で叫んでいる。
きたぞーっ!
磯際の突っ込みを3度、4度かわして自分でタモに入れた。
尾長メジナ、43センチ。
これが釣りたくて、三度、海を渡ってきたのである。
この日は、40センチオーバーを3尾釣った。
久しぶりの自己記録更新。
三宅の海の贈り物に感謝。
その夜、同じ日に自己記録を更新したT君と祝杯をあげた。